2000年3月11日 @六本木の居酒屋

 

カゲキインタビューまでの道程

アポをとる 

 

鶴見済・宮台真司の講演会が終わって間もない11月の下旬、私は志茂田カゲキへのインタビューを企画した。いや、企画したというよりもむしろ、指令されたのだが。実際、私はカゲキについては「ド派手な小説家」といったぐらいにしか認識していなかったし、彼の著書なんかになんの興味も無いばかりか、一冊も名前すら知らなかったのである。直木?それとも芥川のほう?ところで直木三十五なんていう作家の本、読んだことある奴いるのか?まあいいや。結局、カゲキの作品は読まなかった。

とにかく会見のアポイントメントを一回も取ったことが無かったので、取れたらラッキー、駄目でもともと、なんて思いつつ、軽い気持ちでカゲキ事務所に即電話。これまでの度重なる講演会の依頼(全滅ではあったが)で電話には慣れている筈であったが、やっぱり緊張してしまう。しかし結果は…あっさりok 。二つ返事とはまさにこのことだ。あまりの楽勝っぷりに笑いが止まらん。そしてカゲキの経歴と最近の活動を知るため、笑いが止まらないままmnc に行って周囲の目を気にせず彼のHPをチェックし(カゲキが kagekix なんてバンドをやっていたことや、「読み聞かせ隊」という活動をしているなんて知ったのはこの時)、練りに練った質問事項をfax にて送信。その後、会見当日までカゲキ側との数回にわたる打ち合わせを行う。三度目の電話では、初めてカゲキ本人と話をする。声はテレビと同じだ、当たり前だが。フランクな感じで好感が持てる。当日が楽しみになってきた。

ところで日時については当初、12月初旬を予定していたものの、先方の都合のにより何度も延期され、結局3月11日に。場所はカゲキ事務所からほど近い六本木のとある居酒屋に決定。こんな感じで全ては準備万端、あとは当日を待つのみとなったわけだ。

会見当日 

当日、私は授業が無かったおかげで正午過ぎに起床した。まったりと遅い昼食を済ませた後、ラウンジに行き、私の他5人の会見参加者と最後の打ち合わせ。カゲキとは六本木の交差点で5時に待ち合わせの予定だったので、4時ちょっと過ぎにラウンジを出発する。早稲田駅から高田馬場・恵比寿経由と大手町経由の二手に分かれて六本木に向かう。大手町経由の私は一足先に着き、胸を躍らせながらカゲキの到着を待つ。しかし、5時まであと5分だというのに他の参加者は来る気配も無い。困ったことに、電話をしても通じない。5時を回って焦り始めた時、ようやく他の参加者が続々とやって来る。ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、遂にカゲキ参上。赤・青・黄色のカラフルヘアーにショッキングピンクのセーター、そして下はホットパンツという、いかにもカゲキらしいサイケデリック(?)なイデタチである。いやが上にも目立つ。よく見ると、隣に女の人が連れ添っている。彼女は作家志望で早い話がカゲキの弟子ということだった。周囲の視線を浴びながら私たちはカゲキたちに一通りの挨拶を済ませたあと、予定の居酒屋に足を運んだ。そしてツマミ程度の料理を注文したあと、インタビューを開始する。(インタビューの内容は前記事を参照)

 

会見を終えて

カゲキへのインタビューは無事、成功に終わった。これもひとえにカゲキの良さと、ざっくばらんなトークのお陰であろう。ただ、悔いが残ったのは参加者が誰一人としてカゲキの作品を読んでいなかった為に、彼の作品に対する姿勢や思想背景、つまりは「文学的」な内容にまで突っ込んで話すことができなかったという点である。ともあれ、私としては今まで参加した中で、一番有意義な会見であったというのは過言ではない。志茂田景樹先生、本当に有り難う御座いました。     

                              文・山田智之

 

一、まずは「乾杯!」

付き添い人(以下YUKIKO 私、先日本出しました。「シャイニング シャイニング ウーマン」っていう本がKIBA BOOKから出てますので。

人研A 「KIBA BOOK」というのは、先生が新しく…。

志茂田 僕が3年前に設立したちーちゃな出版社。…乾杯しましょう。

一同 乾杯!宜しくお願いします。

人研A 「黄色い牙」とかも新しく…。

志茂田 リニューアルしてね、KIBA BOOK 設立して、実際には3年数ヶ月前の1996年の11月設立なんです。そのKIBA BOOK設立記念の第一弾記念作品としてリニューアルしたのが「黄色い牙」なんです。一応、「黄色い牙」の原点に立とうかなっていう思いもあってのリニューアル。

人研A KIBA BOOKの他にも、色々キバブランド設立している、とHPで見たのですが。

志茂田 まぁ、キバブランドっていうのは商業ブランドじゃなくて自分用の内ブランドっていう、マイブランド、プライベートブランド。

人研A ロックバンドをプロデュースなさってるっていうのは。

志茂田 あ、あれはね、カゲキックス。一時コンサートやなんかあったんだけど、結局1年そこそこで解散状態。

人研A 何人ぐらいでやってたんですか。

志茂田 ヴォーカルが二人に、あと、楽器の方のメンバーが四人だけど、エレキとベースとギターとドラムス。最初のころは、僕も盛り上げ役的なリーダーとしてやってました。

人研A じゃ、何か、バンドの中で音楽をしたいってことは…。

志茂田 2,3作ったけども、やっぱり曲としては、インパクトの面で言うと、僕自身があんまり感心しなかった。

人研A そういえば、昔、聞いたことあるんですけど、クノイチっていう女性グループをなんかプロデュースしたっていう…。

志茂田 あー、クノイチ、うん、女忍者の格好してヌンチャクやったり、曲芸的なパフォーマンスやりながら唄、歌ったんだけど。これがね、正直言って、そのパフォーマンスがウケない代わりに実力が伴わないから上昇することが出来なかったよね。

二、音痴

人研B でも、そうやって沢山、音楽活動にも一応、手を広げていかれたってことはやっぱり、始めから興味があったってことですか。

志茂田 うん、僕は5歳のときに耳を悪くして、それ以来ずっと、普通の人に比べたら3割は聴力が落ちるの。だから、大体低い声でくもるタイプの人の言葉が聞き取れない。だから、そういう人が、横や後ろから声かけても気がつかない場合が多い。それもあって、どうしても音感がやしなえない。だから、自然的に音痴なんだけれども。小学校、中学校の時の音楽の実技のテストのときに、決められた時間の中で、全員がテストしなければならないから、ちょこっとしか歌わせない。その頃は、音痴は音痴なりにちゃーんと大きい自分の歌い方で声を出して歌って、度肝を抜けばいいんだ、なんて考えないからね。自分が音痴だって引け目があるから、自分の番になってピアノの前に行くと、声が出ない。やっと蚊の鳴くような声で歌うから、元々音痴なのにそんな歌い方しても、そりゃただ呟いてるだけだよね。だからみんな、「あいつは、な~んだ?」って顔して。それがまたすごく惨めでね。自分の机に帰る時は本当に「もう二度とやりたくないな」と思いながら帰っていった。みんなは「あー、アイツ本当にダメなんだな」って、その時一瞬思うだけなんだけども、あとは忘れちゃってるよね。でも、そん時にそういう視線を浴びた本人にとっては、いつまでも、それが矢みたいに刺さって、こん中に残る。そういうことで、高校になってから音楽が選択科目になった時なんか、普通の人にはそんな気持ち分からないんじゃないか、ってくらい晴れ晴れとした。それから「そっか、音痴は音痴でもいいじゃないか」って思うようになった。二十数年前だよね、第一次カラオケブームってのが。今のカラオケとは全然違くて、レーザーディスクの頃のは原始的なカラオケだったけども、日本人には、カラオケってのが合ってるんだよね。ああいう枠の中で歌うってことが、日本人にとっては、意外と気が楽なことなんだ。そんな原始的なカラオケなのに、もうどんどんどんどん広まって。当時、一応社会人だから、営業あとに会社の得意先を接待して、すると今と同じで、「じゃ、カラオケいきますか」なんて、カラオケが置いてあるスナックに移動するわけよ。その言葉に、「ギク!」ってしたけどね。すると、日本の会社ってのはね、たった数人から十人くらいの、そんな人数でも「村」を作ってしまうんだよね。どういう意味での「村」かというと、みんながやっていることを同じようにやっていかなくてはいけない。それしないと「アイツはなんだ?」っていうような意識で見られる。「今度はお前の番だ」と言われると、「僕はパス」と。初めの1回2回はいいんだけども、何回もパスすると「何でみんなが歌ってるのに、お前歌わないんだ」ってこっぴどく叱られたことがある。しょうがないから歌ったら、やっぱり声がでないのね。そうすると、みんなシラケてこっち見て、その視線を浴びると益々萎えてきちゃって。やっと終わって自分の席返ると、接待された側も「う~ん、なんだ?」って言葉には出さないけど、「あぁ、たまんないな」って思ったもんね。そんで、そんな風にカラオケが普及しちゃって、ほんとに肩身の狭い思いになったんだけど、ある時、「カラオケはどうせ無くすことができないし、そのたんびにそんな思いしてたんじゃたまんないな。」って思った時に、意識がうごめいた感じがあって、「耳が悪くてちゃんと歌えないなら、それでいいじゃないか!自分の歌いたいように歌えばいいんじゃないか」っていう風な考え方になったの。そんで、「今度はハチャメチャに歌ってやろう!」ってことで、その機会が来た時、伴奏なんか、もう全然合うわけないけど、思いっきり声出して歌って歌い終わったら、お世辞じゃない拍手が起こったんだよね。それからカラオケのマイクを握るのが得意になったね。それで新宿の方でよく歌うようになって、「バイオレンス演歌」だって言われる様になって。

一同 (笑)。

三、「音痴貴族」入会~歌手デビューへ

志茂田 そんな感じである夜歌ってたら、当時まだ僕は、それでも34・5前後だったんだけど、40代の中年の男が近づいてきて、「是非、私達の仲間になってください。」と。で、「どういうことですか?」っていうと、「私は音痴貴族を主催しております、○○です。」というわけよ。「こんだけカラオケ流行って、音痴の人間が肩身狭い思いしている。だったら、音痴の人間だけが集まって思う存分歌えばいいじゃないか!って主旨はそれだけです」って。これは悪くはないな、と思って、二つ返事でそのサークルに入りましょう、って。そのサークルね、700人くらい会員がいるみたいで、2・3地方にも支部がね。そんで、初めてその会の月1回の、100人くらい集まる、その月のメインの会に行ったら、たまたま音痴貴族認定大会だったの。まぁ、段とか級を授けよう、っていう会で、審査員が3人いて、その審査員達の一番の役目は、音痴でもないのにわざとハズシて歌う人間をチェックしよう、って。何処でチェックするかっていうと、わざとハズシている人間は、例えば3コーラスまである歌詞をね、1コーラス、2コーラス同じようにはずさないのね、わざとやってるから。ところが音痴が一生懸命、真面目に歌うと、はずれるところは1番も2番も、まるで曲線がダブるように重なる。それで判る。そんでその会で、僕は“音痴五段”という最高位をもらったわけ。

人研B 最高位ですか?

志茂田 音痴五段は全部で5人しかいない。

人研B (笑)。もう、トップクラス!

志茂田 そうそう、それでますます気を良くして、夜毎歌ってたら、白いスーツ着た若手の男が、「是非、その歌レコーディングしてみませんか?」って言ってきたの。ポリドールのプロデューサーだったのね。それで、「あぁ、いいですよ。音痴貴族の五段、他に4人いますから」っていうことで、その5人で世田谷にあるポリドールのスタジオで、朝から晩までレコーディングした。それで終わった後5人で朝まで呑んでね、「一生付き合おう」なんて、最後は固い握手して、尽きない思いを無理に切って別れたけどね、今はもう、他の4人の消息は全然知らない。(一同笑)人生はそんなものだね。そのLP盤は不幸なことに売れなかったけどね、全然。その辺りで僕のカラオケも、いったん終止符打ったんだけれども、今度はTVで歌い始めて。するとイントロクイズなんかやってね、それでまた、よく歌わせられるようになって何処に行っても「歌を歌ってくれ」っていう風になって…。ウィークポイントとか欠点みたいなものも、この中にいれている限りは死ぬまでそれが欠点になって、自分自身でその陰に怯えていなければならない。でも、そんなもの、こっからあっさり吐き出してそこらに転がしてしまえば、逆にそれが武器になる。歌じゃなくても全てそうだと思う。ホントに自分がやりたいことはもちろん、周りに迷惑かけない限り、もう思い切ってやんなくてはならないと思う。また、自分が負い目に思ってることは、そういうものはしまいこんでるほどに、どんどん陰が大きくなっていくっていうこと、知らなきゃだめかなって思う。しまいこんでしまうのではなくて、外に放り投げてしまう。そうすれば、逆に考え方が変わってくるって部分があるよね。

四、日本人の無難思考

人研C そういう風に考え方が変わるようになったきっかけとかは…。

志茂田 きっかけ自体は、そのカラオケから。働いている以上日本社会がそういうお付き合いの、しかも、村社会だから。自分がダメだからといって、逃げてるわけにはいかないなぁ、と思った時に、それだったら、逆を行ってやろう!て風になったっていうのかな。

人研D 極限状態における開き直りのようなもんですか?

志茂田 そうね、開き直りといえば開き直りだけど、実は世の中で、欠点だと誰もが認めてるような部分が、もしかしたら本当は長所なのかもしれない。そういう風に考えることが大事だと…。

人研D それは、日本人にはなかなか出来ないような考え方ですよね。

志茂田 日本人はねぇ、さっき言った“村社会”でもあるし、枠の中で安心してしまう、みんながやってる限り安心だ、みんなが持ってるモノを、たとえそれがブランドであろうとなかろうと、持ってさえいれば安心だ、となると、単なる安心感、みんなと同じモノを持っている、同じ行き方している、それで安心してしまう、というところが、日本人には多いんじゃないかなって気がするよね。要するに、血縁、地縁的な社会伝統があると思うのね。つまり、都会は薄くなってきてるけども、田舎行けばまだ近所でなんか不幸があれば、親戚でもなんでもなくても、そこに手伝いに行くってのが、まだまだ当たり前に行われてる。これはこれですごくいいコトだとは思うのね。でも、どっかで「個」を失っちゃうと、ちょっとハズレたことやっている人間見ると、それを非難してしまう、迫害してしまう。そういうような傾向が日本人は強くなる。

人研A  マイナス思考も、逆に個性として長所にする、ということですか?

志茂田 マイナス思考…、無難思考…。つまり欠点がなければいい。ものすごく今の日本にはまだまだ蔓延してる傾向があるけども、それって実は、ただ生きていく上では楽だけども、せっかく生まれて悔いを残したくない人生を送りたくないんだったら、やっぱりそこのところでマイナス思考になってたら、あまり面白くないんじゃないかな。

人研A 人間って、常に無難に生きようっていう、打算とか考えが起きちゃうと思いますけど、先生の場合は、無難じゃいけない、っていう、逆に個性をもっと引き出そうっていう…。

志茂田 まっ、考えとして言えばそうだけども。でも、考え方ってそうなるもんじゃなくて、やっぱり社会ですね。要するに、どんなことがあっても守らなきゃいけない決まり事っていうのは当然ある訳でね。それを簡単には爆破できない。一番分かり易い決まり事は「法律」だしね。まぁ、殺人なんてやっちゃいけない、どんなことがあっても。こういう社会生活を営んでいく上での決まり事は、基本線として誰もが守る義務があると思うけど、そうじゃないコトまで枠を作ったり、暗黙の了解事項みたいなものを作ってお互いを縛りあったり。そっから、やはり人間の一人一人をね、魅力的に解放させていくものってのは抑えつけられてしまう。その部分ではそれぞれが、もっともっと開放させて、自分を表現させていけばいいんじゃないかなって気がするけど。そういうことやる人間を、特殊な目で見てしまう風潮はまだまだ強いしね。また、中にはやっぱり間違った人間もいてね、他人に迷惑をかけて、単なる奇をてらってやってるだけなのに、「これが個性だ!」、「これが表現だ!」なんて思っている人間もいるし。やはり、本当に自分が「何をやりたいか?」って、自分の本音をいつも自分自身で問いただして、やりたいことを一生懸命やる、結構風当たりが強いかもしれないけれども、本当に自分がやろうと決めたことなら、そんな風当たりが気にならない。そういう風当たりっていうのはいつまでも続くモンじゃなくてね。逆に、やり抜くことで周りを染め上げていくことが出来る。その辺りが、一番大事なんじゃないかと。まぁ、僕は10年貫けば、それはひとつの哲学になるんじゃないかなっていう思いを持っているけどもね。例えば、僕がタイツ姿になってから、12・3年が経つわけね。TVによく出る前だったら一番保守的な反応をすんのが、一流会社の管理職、重役。10年前に並木通り歩くと、そういう人種が「ギョッ!」としたような顔をして僕を見た。そんで、すれちがった。後ろ振り向くと、向こうは立ち止まって、こういう風に指差して。当時でも子供とかあるいは若い女性てのは、面白がったりからかったりするけれども、100%排撃してるわけじゃなくて、結構、受け入れるところがある。それから5年経ったときの並木通りの反応はどうかっていうと、ギョッとはしなくなった。「あの人はよくヤッてるよなー」っていう半分認めた、あるいは、半分「よくやっているけども、おかしいよなー」っていう。ところがそれが5年経った、数年前辺りから、並木通りのそういう人種は酔ってると握手求めたり、抱きついたりして…。要するに「そういうことやれて、羨ましいです。私は出来ないけどしっかりやって下さい。」なんて本人に言うようになった。だからやっぱり、10年かかるわね、周りが認めてくれるようになる。

人研B 最近、女子高生とかも自己主張とか言って、「ガン黒」とか「ヤマンバ」とかやってるじゃないですか。そういうのはどうですか?

志茂田 うん、でもねー、いつのまにかマニュアルみたいになってそのマニュアルが多様化してく、そん中で去年のこととして「ガン黒」っていうマニュアルの中の人種だと思うのね。そのマニュアルの中では、「アンタがやってるからワタシもやんなきゃ」ってことと同じだと思うのね。そのマニュアルを借りて自己主張してるように見えるけれども、実は自己主張ではなくて、その「ガン黒」族の中に、逆に帰属してしまってる。帰属することで安心感に包まれる。アレが独創的な表現でも、個性のほとばしる姿でもなんでもないと思うのね。そのもっと前の「コギャル」タイプと同じでね。単なる風俗だとは見ていいけれど、あんまり関係ないと思うのね。

人研D 結局、先ほどおっしゃった「村」というものと変わらないということですか?

志茂田 何処の「村」に住もうとその村に入ればやはり、ガン黒なら「ガン黒」村社会だし。そこでの決め事だとか、決めないまでも、暗黙で了解し合っている部分から外れたら、こりゃ排撃されるし、村八分状態になる。もっと言えば、日本には「利己主義」があるけれども、個人主義がまだ確立してないんだよね。本当の「個人主義」てのは、周りに迷惑かけた「個人主義」にならないの。社会の基本的な原則的な約束事はちゃんと守った上で、自分の生き方をその中で出していく。「利己主義」とは明らかに違う、似ても似つかぬものなんだけど、日本人の意識の中ではちょっと「個人主義」と「利己主義」の境界線が曖昧なんだよね。

五、添乗員、雌犬販売員、探偵…

人研A 今までどんな職業なさってらっしゃったんですか?

志茂田 初めは法律事務所から、英字百科事典、エンサイコロペディアのセールスだとか、新製品のセールスだとか。

人研C 保険調査員は…?

志茂田 保険調査員はもっと後の方だよね。…今で言えばツアーコンダクター、添乗員もやったし。当時は何が多かったっていうと国内の温泉旅行。しかも農家がようやく豊かになり始めて、農協のおばさんの団体とかなんかだけど…。それとか、「東京(聞き取り不可能)」って会社があって、イギリスやアメリカやオーストラリアから猟犬のイヌ、血統書付きの犬を販売してた。ただ販売してたんじゃなくて、何を販売してたかって言うと、雌犬を販売してた。愛犬家に売るんじゃないのね。利殖をはかるコトが好きな人、ほとんど主婦に売るわけ。ま、当時経済成長は右肩上がりだっていう時代で、共稼ぎ、主婦がパートに出たり、あるいは他の利殖はかったり…そういう時代だった。そういう時代にこの雌犬を飼えば、子供をなんとか生ませて、優秀な種犬を掛け合わせると優秀な子供が生まれますよ、その子供一匹いくらで引き取りましょうね、っていう。だから、なかなか新手の上手い商売だと思うのね。それがすごく当たって、首都圏中心に営業所あっちこっち持って。そんで何を新しく始めたかっていうと、犬の健康保険を始めたの。毎月こんだけの掛け金で、犬が風邪ひいても肺炎になっても、当社の優秀な獣医がすぐ行って無料で治しますよ、って。これは欲張りな人じゃなくて、本当の愛犬家にすごくウケた。僕はそのセールスの募集で入って、「こういうのができたんです」なんて持っていってね。10人中8人はたいした掛け金じゃないから犬の健康保険入って、「これは楽だな」って。なんて言ってるうちに、ある朝会社に行ったら、社員がみんな壁際に突っ立って、ちょっと目つきの鋭いのが引き出し開けて、ダンボール箱に書類をドンドン詰め込んでいって…。そこは、当局のテリトリーだから摘発されちゃったわけ。あの当時の(聞き取り不可)版見るとこーんなデカく、社会面のトップ、1面にもちょっと載ったり…。何故摘発されたかっていうと、勝手に血統書作って売ってたんで、それが引っかかった。そんで、一夜にしてその会社潰れちゃった。まぁ、そんなところにもいったし、興信所、探偵社にもいったし。

人研D 探偵もやってたんですか?

志茂田 そう。探偵もね。これねぇ、始め簡単な身元調査。それを2ヶ月ぐらいやったら、小さな探偵社で、社長が「尾行やってみないか」っていうからやった。

人研B 張り込みが主ですか?

志茂田 その前に、いろいろ尾行のノウハウとかなんとかを教えてもらってたからね。尾行するときにね、決して尾行する人間の肩から上を見ちゃダメ。普通の素人が、誰かなぁ?っていうと、だいたいこっから上見る。そこ見てると、何の気なしに、尾行されてる人が振り返ると、目と目が合ってしまう。人間、目と目が合うと、「あ、何だろ?アイツおかしいな」って勘が働くのね。足元を見ろって言われたの。そこだけを見て尾行してれば、振り返った時、目が合わない、とね。―――まぁ、当時は派手なカッコしてたわけじゃなくてスーツ着てたわけだけど。どんな地味でどんな小柄でも、目と目が合ったら、「アイツ何だ?」と。そういうもんだと。確かにそうなんだよね。ま、簡単な尾行のノウハウを仕込まれて、尾行した。人ごみ行っても、足だけ見てれば見失うことないね。例えば、昔は渋谷のハチ公像前。これは、昼間も夜も人ごみだったんだけども、見失わなかった。でも、その通りにやったんだけど、ドジだからね、捲かれてしまってわかんなくなっちゃって。その時、「これは怒られるなぁ」と思って会社戻ったら、案の定、探偵社の社長なんてやってるのに生半可なのいないから、すごい雷落とされて、散々怒った後にケロっとして、「そんなことだろうと思ったから、お前の後にアイツつけといたよ。」って。要するに、そこではベテランの探偵がいてね、だから全然仕事には差し支えなかったんだけど…。僕の後にもう一人探偵がついてた。

人研B 確かに、2人つけてることで、つけられてる方も1人捲いたと思ったら、もうつけられてるとは思わないっていう…。

志茂田 そう、2人つけるって、これもまた見事なことよね。しかもまた、もう一人には言ってないわけだから。

六、戦死した兄の記憶

人研B その中で、小説家を目指そうと思ったきっかけとか、時期とかは…どういう感じなんでしょうか?

志茂田 これも少し話せば長くなるけれども…。僕は本来六人兄弟の末っ子。一番年上が男で一番下の末っ子が僕で、間が女。僕の一番上の兄は十五歳ちがうんだよね。そんで、昭和20年に、中国の東北部、昔で言えば満州ってところで20歳で戦死してる。4・5歳の記憶ってのはよく覚えてて、兄貴が、まだ19歳で召集された。繰り上げ兵役っていってね。本当は20歳になって徴兵検査はあって、戦争はそんな風に――太平洋戦争だけれど――、苛烈になったから繰り上げになった。志願すれば16歳でも、少年戦車学校とかいろんなとこ入れた、そういう時代なんだった。4・5歳の時の兄の記憶で一番鮮明なのは、父親が若い人連れてきて宴会やった、宴会の記憶なんだけど、その時の宴会はただの宴会じゃない。そんで僕は、兄を探してた、何処行っちゃったんだろうか。そっちの方でみんな大人達が、――大人達がったって、ほとんど20代の人たちね――宴会やってる。そんで廊下に出たら、兄が暗い庭に向かって、ゲーゲー戻してる。そして、その背中を母親がさすって何事か言ってる。兄はその言葉に頷きながら、苦しそうにこうやってる。それがまず1つのシーン。その後につながるシーンは、元服した兄を中心に、父親と近所の人が歩いてる。もちろん、僕は父親の手に引かれて歩いてった。官舎を出て、しばらくして何気なしに振り返ったら、門のところに母親がいた。そんで、僕が振り返ったのち、すーっと中へ隠れた。もう1つのシーンは、駅のプラットホーム。そこへ電車が入ってきて、兄と父親だけが乗り込んで、他の者はプラットホームでみんな、「万歳!万歳!」ってね。そして、ドアが閉まった。そのドアのガラスに、兄が顔を押し付けて、僕の方見て手を振った。僕も、こう手を振り返した。すごく、その時の兄の目が、澄んでたんだけども、なんとも言えない寂しそうな目してた。電車が、すーっと滑り出して、すぐ見えなくなって…。その3つのシーンね。初めの宴会は、兄貴に召集令状って、兵隊行くと、「お前はどこそこの部隊に行きなさい」っていう令状。それが来た時の壮行会、要するに送別会。中学高校あたりになって、よくそのシーン振り返って思うことだけども、母親が背中摩りながら何か言ってた、兄が頷いてた。あの時代は、戦死すれば「名誉の戦死だ、名誉の家だ」なんて言われていた時代ね。でも誰が子供が戦死して「名誉」って思う親がいるか、そんな者いやしない。本当は、生きて帰ってきて欲しい。だから何を言ったか。きっとあれは「どんなことがあっても生きて帰ってきてね、戦死しないでね。」と、こういう風に言ってた…と、僕は勝手に思ってるけどもね。そんで、その後のシーン。あれは翌日のことだと僕は思い込んでたんだけど、でも何かの時に確かめてみたら、実際に駅に向かったのは壮行会の3日ぐらい後。あの時、お袋はやっぱり駅まではとうてい送っていくことは出来なかった、お袋の気持ちとしてはね。去っていく息子の後姿を見送るのがやっとだったんじゃないかな。そんで、僕が振り返ったことで、そういう気持ちだったからすーっとこう言う風に入っていったんだろうな、と。次の日での、ドア越しの兄と手を振り合った、これは、兄との最後の別れだったのね…。

七、文学との出会いと兄の戦死

志茂田 で、昭和21年に僕は小学校に入った。そんで、兄の3畳間の部屋があって、そこに座り机と、こんな5段の本箱。兄ってのは文学少年で、特に詩が好きで、石川啄木の詩集や、それに、外国ではハイネの詩集が多かったかな。そういうのがいっぱい入ってて、僕が小学校入って、一時学校から帰るとすぐ、兄の部屋に入るのが初めの頃の日課みたいなもんで、ドア開けるの、本箱の。いろいろ詩集取り出すの、ぽん、と。意味も解らないの、もちろん読めもしない。まぁ、ひらがなぐらい読めるけど。そんで、詩集だと余白が多いんで、そこに万年筆でいっぱい書き込みしてあんの。まぁ、あの時代、原稿用紙もなくなったせいかなとも思うんだけど、兄の筆跡だ!って筆跡だけは判る。崩し字で読めないけども。それを見ただけで、なんか兄の声を聞いたような、日記を聞いたような気持ちになるのね。昔は、よく押し花ってのがしてあって、その押し花が、ぱらりと床に落ちる。「あぁ、これお兄ちゃんが作った押し花なんだな」って、なんかすごく兄と一緒に話をしてるような気持ちになるの。僕の兄はね、昭和20年の8月22~3日の間に戦死しただろうってことになってるわけ。終戦は8月15日、何故そんな後になって戦死したかっていうと、当時、満州にいた中国軍と満州にいた日本軍が、関東軍なんて呼ばれて、「関東軍百万の精鋭」なんて言われてたけど、ノモンハン事件ではソ連軍にこてんぱんにやられてしまって、太平洋戦争がどんどん厳しくなっていく状況の中で、どんどん部隊は南東に送っていってるから、もうガタガタの軍団だったの。それで、8月7日にソ連軍がバーンと入ってきた。もう、どうしようもないことには、当時の総司令官山田大将、さっさと飛行機で日本に帰ってきちゃったの。かぶかは、もちろんもっと前に鉄道で朝鮮に送って。もう、関東軍の総司令部が機能を果たさなくなった。だから、前線の部隊に通信が行き渡らなくなって、そして8月15日にポツダム宣言を受諾して終了した。あの、日本軍てのはね、上級司令部が「あっ、戦争終わった。じゃソ連軍に降伏して、武装解除を受けなさい」って言わない限り、降伏できないの。「死して虜囚の辱めを受けることなかれ」って、捕虜になっちゃいけないの。だから、それにはなるまいって兄たちは降伏しなかったの。ソ連軍が、「もう戦争終わったんだよ、降伏しろよ」って言っても関東軍総司令部から「降伏しろ」という通信がこなかった、降伏しなかった。その内にソ連軍が痺れ切らして、終戦なって十日近く経った頃に、ドンパってやって、兄の部隊は全滅した。でも、戦死って確認が全滅状態だからされないんで、行方不明状態になった。だから、母親としてはほとんど「生きてないだろうな」と思いながらも、一部の望み抱くからね、「無事に帰ってきて欲しい」って。そんで、小学校の時によく、その3畳間、一時入ってたんだけど、中学校入ってから、あんまりその3畳間入らなくなった。ある時たまに入ったら、お袋が座り机の前で正座して泣いてた。僕はいきなり入ったもんだから、何も言わずに外へ出てっちゃったけど。何で泣いてたか…、夜になって分かったのね。兄達姉達に、戦死公報っていう昭和27年になって初めて僕の兄が戦死したっていうのが、正式な通知が政府から入った。シベリアに抑留されていた日本兵の捕虜の1番最後に帰国した連中は昭和27年で、その中に、全滅したと思われてる兄の部隊の生き残りが二人いた。その話から、「志茂田何某は戦車砲弾受けて、ふっとびましたよ」っていうような証言が…。そんで、戦死したんだなって認定されて、戦死公報に。だから、昼間のうちに戦死公報がきて、僕はそれを読んで、色々心の整理しながら泣いてたんだけどもね。

八、作家デビュー~直木賞受賞

志茂田 兄の本箱で培ったものが、将来の作家志望に繋がるんだけども、僕は高校、大学時代は映画のほうにハマって作家志望って思いはなかったんだけど、職を転々としているうちに、保険の調査員をやり始めた頃からね、作家志望が強く芽生えてきたね。それはどういうことかというと、保険の調査員てのは全国飛び回る仕事で、一回出張に出たら、二週間ぐらい帰らない。まだ新幹線なんか、東海道新幹線ぐらいしかない時代。まだ、夜行特急ね。すごーく移動時間が長い。調査行く先は、山奥の山奥、あるいは、岬の岬の果て、なんて辺鄙なとこに行くことも多かった。辺鄙なとこ行くと、やたら移動時間が多いんで、この時期に本読み始めたのね、バックに何冊も詰めて。まったくどん詰まりの村行ってもね、宿屋必ず一軒はある。そういう所、泊まる。テレビ見ようかなっていうと、こんな山間だと、電波の都合が悪くて映らないのね。時間の潰しようがないって宿でも本読むの。そういうあれで、一時すごく濃密に読書したわけ。僕の性格で人文学、大衆小説、読むもの問わず何でも、小説であれば読んだ時代でね。そんでもう職いろいろと転々としてきてるから、いろんな経験もしたし、いろんなユニークな人物にも会って。文芸誌なんか読むと、新人賞が載ってる。これ読むと、「これくらいの小説なら僕にも書けるんじゃないかな」なんて。そんで色んな「あそこで出会ったあーゆう人モデルにして…」という風に、作家志望が芽生えてきたの。28歳にして。でも、人間ねぇ、小説志望が芽生えても、なかなか書かないのね。きっかけないね。「いつか小説書くぞ」って思いは強くなったけども、なかなか、そのきっかけは来なかった。でも、そのきっかけがやって来た。それは何だったかっていうと、神奈川から早い夜、夜行特急に乗ってしばらくしたら、この辺がうねるような苦痛に襲われて、脂汗はタラタラ。病院行ったら、「これは虫垂炎、…盲腸だなぁ。でも、外科の医者明日にならないと来ないから。」ってことで鎮痛剤打たれたのね。でも翌日になってもその外科医が来ない。夕方近くになって来て、緊急手術してくれたけども、当然膿が回ってたから腹膜炎になってね。40度くらいの熱が数日続いて。腹膜炎併発するといくら熱いっても下がらないの。下がれば助かる、下がらなかったら一貫の終わり。僕の場合は、3・4日で熱が下がってきたんで助かったんだけども。まだ若かったから、熱が下がってしまえばドンドン元気にって。で、すごーく退屈でね。でもなかなか退院許可出さない。後で聞いたら、そこの病院ね評判の悪いヤブで、退院しちゃうとあとのベットが埋まらないんで、そう言ったんだって判ったのね。そんで、まぁとにかく僕は退屈で、エラく元気で。で、その時に「小説書こう!」って思ったわけ。そんで、退院するまで35・6日。その間に70枚くらいの短編仕上げて、新人賞に応募したら、受賞はしなかったけど二次予選に入ったんで、「これは続けていけばやれるんじゃないか」っていう思いになって。そんで仕事も少しでもそういう世界に近い仕事ってことで、建設関係の業界誌の記者、それからTVガイドの取材記者と初めて書く仕事やって。そういう風にマスコミの世界の中に職を得ながら、新人賞の応募は続けた。28歳で小説家になろうって思いが出て、実際に応募したのは29歳。新人賞とったのは36歳。7年間、苦労した…。応募で苦労した甲斐があって、新人賞とってから割と順調で、1年経って作家専業になれたけどね。そんで、4年目には、直木賞受賞って風に繋がるわけ。

人研A 直木賞とった前と後で変わったことってありますか?

志茂田 これはね、まったく世界が変わったって感じが言えるかもしれない。電話が鳴るは、インタビューあるは、それまでそういう経験がたまに、あったかもしれないけども、そういう風に殺到するってのはなかったから。それ以上に変わるのは、今の若い作家はね、割とビジネスライクで「エッセイ5枚、原稿料一枚いくらです」なんてこういう風に。僕らの頃は、作家ってのはそんなことはカッコ悪い、っていう意識があったんで。受けるか受けないかの問題で、原稿料は向こう任せ。それが直木賞とってから、すぐ2倍3倍に、黙ってても跳ね上がったもんね。

九、これからはメルヘンを書きたい

人研A これからチャレンジしたいことってのは…?

志茂田 ちょっと今童話なんて書いてるけどもね。まぁ、今チャレンジする事と言ったら、例えば「黄色い牙」。あれ、僕にとってメルヘンなわけね。それでもう一度「黄色い牙」の原点に立ってみようと考えた時に、メルヘンの世界が魅力的になってきたというところがあるのね。というのは、メルヘンの世界には本当に人間にとって素直な部分、大切な部分てのが、メッセージとしていっぱい込められているんじゃないか。だったら、自分もその世界に立ち返ることによって、いつのまにかどっかへ置き忘れてしまったものを、もう一度取り戻したい。探して見つけて、本の中に詰めてみたい。って、そういう気持ちがすごく、今になって強くなってきた。で、僕は読み聞かせのボランティアやってましてね、一昨年の11月に書店の店頭でふと思い立って、親子連れが多かったんで、書店の人に「何か持ってきて」って言って、始めたのが最初。そしたら反応が割と良かった。子供も割とすぐ世界に入って来てくれたしね。それより、親たちの反応が良くて、終わった後「心表れた気持ちになります」とか、そんな感想言ってくれて。そんで「もしかしたら、親も、むしろ親達の方が、何か今、求めてる時代になったんじゃないかな。童話の持ってるメッセージの中にその答えがあるんじゃないかな」と、そういう気持ちになって。「これは自分自身、もう一度、そういう部分、そういう心を探してみよう」って気持ちになって。去年、年が明けてから一人で読み聞かせ始めてね。今、登録してるメンバーが10人くらいいるんですよ。で、去年の8月に「よい子に読み聞かせ隊」ってのを結成して、9月から「よい子に読み聞かせ隊」として4人で行って。もう50回くらいやってるの。それはやっぱり、読み聞かせやってて、聞いてもらうことで自分が楽しいから。必要なものがきっと、その子供の時に持っていた心、メルヘンの中にあるメッセージ、そういうものだと思うから、一生懸命やってるのかな。

十、不登校の子供たち

人研A 子供っていえば、不登校の子供との交流とかしてるようですけど、その交流を通じて何か考えたことってありますか?

志茂田 今の不登校の子達は、すごく感受性の豊かな子が多くて。ただ、その感受性を受け入れてくれる場が、あまりに学校にも家庭にもないもんだから、そんで心を閉ざす。結果的に不登校になっちゃう例が多くてね。例えば、僕は2ヶ月に1回、JBSフリースクールってところで、1時間半の授業してて。授業っても、学校の先生いっぱいいるんで、学科は教えてない。その時その時、生徒達と好き勝手なこと話してる。そういう形の授業やってるんだよね。そこのフリースクール、一昨年が開校だったのね。そん時は生徒は7人しかいなかった。僕はその入学式で、「みんなが僕の心に好き勝手に落書きをしてくれたら、うれしい」っていうこと話したのね。2回3回行っても、一言も口をきかなかった生徒がいた。4回目に行った時、彼の耳にキラッと光っているピアス。それがね、なんか星型の、僕の好みに近いデザインだったんで、「それいいね」って言ったら、そん時初めて一瞬表情を和らげた、一瞬微かにニコっとした。言葉は返ってこない。5回目の授業の時は、昼間にカラオケ行った。で、「GRAYの曲、君歌える?」って聞いたら、その彼がGRAYが大好きで2曲3曲かつぜつに歌った。その後かなぁ、彼と会話が成立するようになって。その彼は、何故フリースクールになったかっていうと、彼は教育家庭に育ったの。お父さんはもちろん、お母さんも先生ね。そのお父さんが、彼が子供の時から、「お父さんと同じ大学に入れよ」なんて。日本でトップクラスの大学ね。小学校の頃は、口癖でそういうこと言うお父さん。その言葉は、そんなに重く響かないの。大学にはいるのは、遥か遥か先だから。それから勉強やってきて、中学校の時、小学校の時よりも耳にタコができるお父さんの言葉。小学校時代より重く感じる。彼、中学、優秀な成績で、福井県の最難関の高校に良い成績で入ってから、お父さんのその言葉がすごく重く響くんだけども、彼は実は、やりたいことが別にあって。そういうことで、お父さんに話したけども、お父さんも頭固くて…。だんだん「来年は3年だ。そうすると再来年は、大学受験じゃないか!」すごーく、お父さんの言葉が重い。で、お父さん自身が鬱陶しかった。それがどういう形で出るかと言うと「学校へ行きたくない」って形で出る。学校へ行きたくなくなる前っていうのは、サインが出る訳ね。そろそろ行かなきゃいけない頃まで、グズグズしてて、お母さんに「もうそろそろ行かなきゃ遅刻するわよ!」って追い立てられる。トイレに入るっていうのも、本当は行きたくないってサインで。お母さんがドアを叩いて、「行かないともう遅刻よ」って。そういうのが続いているうちに、家を出ても学校に行かず、図書館に行ったり。すぐに不登校してるってのが判った。慌ててお父さんはそれを知って、愕然として。愕然とした中ですごい怒り方をした。お父さんとしては、成績も優秀だし、自分の大学に、こりゃストレートで入れるわっていう風に思ってたのが、グルンと逆転した。「えーっ!不登校なんて考えられない」ってね。それで叱責したところ、彼がキレて、家庭内暴力みたいになって。彼が少し落ち着いてきたのは、お父さんが諦めた時。その時に自分の意志でフリースクールに入ったのね。やっぱり、フリースクールに入る前とは違ってる。明らかに、表情から何から違ってくる。

人研D 人が変わっていく過程にちょっとでも関わってくるのは、喜びですか?

志茂田 本当は関わったかどうか、分からない。関わったなんて自分が意識すると、きっとお節介になりすぎる。そういうんじゃなくて、やっぱりそれは、多くのお母さんにも言いたいんだけども、「何故学校行くのがいやなの?何故学校行かないんだ?」じゃダメよって。サインを出してる時にやっぱり、本当に考えてること知ろうって、子供を分かろうって。子供を分かろうってことは、自分を子供の目線の高さに置かなきゃいけないし、同じ高さになって初めて、お母さんの時には、あなたの年にはこういうことして、こういうことしたのよって、素直に話せるように。それを子供が「えぇー、お母さんそうだったの」って感心するか、「全然そんなこと意味ないじゃないか」。どっちにしろ、子供は素直に聞いて、判断するようになると思うのね。そっからだと思う、コミュニケーションが実質的に成立するのは。

十一、ファッションについて

人研A あの、先生はもう今年で還暦…。

志茂田 そうそう、3月25日もうすぐ60歳。

人研 あの、一応お年寄りっていう分類に入っちゃうことに…。

志茂田 60でお年寄りなの?フフフー…(笑)。

人研D さっきからずーっと気になっていたんですが、その髪の毛って、どんな風にコーディネイトしようかな、とか自分で考えるんですか?

志茂田 これはマニキュアだから、3つぐらいの色に分けて染めてるだけでね。だから、1ヶ月に1回くらいマニキュアし直したり。

人研D 色の組み合わせなんかも、ホントに気まぐれとかですかね?

志茂田 まぁ好きな…、ショッキングピンクなんかも好きだし、一番初めは、ブルー1色だった。ブルーからショッキングピンク、それからさらに黄色もいれてとなったんだけども。だんだん若い人も、最近は髪の毛も色とりどりになってきて。マッキッキもピンク系もやってるんで、すごく僕はいい傾向だなと思ってるのね。

人研 何年前からこういう髪型になったんですか?

志茂田 今の髪型、基本的には十数年同じだと思う。その時によって、うんと短めにカットしてみようか、あるいは、ちょっと長めにしたまんまがいいんじゃないかっていうだけの違い。

人研E ファッションなんかはかなり昔から…。

志茂田 要するに、マニュアルとしてのファッションだったら、僕らの中学の時には中学なりの定番があったからね。社会に出てからもメンズファションの本で、上から下までコンチネンタルが流行れば、それを着て履いて、得意になった時期もあったけれども。単にそれ、おしゃれでも何でもないと思って。一応今ほどマニュアルはなかったけども、要するにブランド志向って、このマニュアル村に入って安心してるだけ。だから、着るものがブランドであろうがブランドでなかろうが、「あぁ、これいいな」と思ったものを着る。あるいは、自分で作ってみる。あるいは、作らないまでも既製品を勝手に、あちこち切って着てみる。そうなってからだね、ブランドに全然こだわらなくなったのは。ブランドにこだわっていたうちは、ほとんどそのブランドに支配されている、ブランドに着られているだけでね。フランスが日本人のブランド志向を一番上手く自分達の利益にしてるだけでね。向こうのフランスの人は、ちゃんと自分の好みで探してる場合が多いんで。日本は簡単なんだよね。まぁ昔で言えば爆撃みたいなもので、要するにどっとフランスから来た、シャネルだなんだ爆弾落としゃ、みんな飛びついて着てる。そんな大勢の人がシャネルだなんだ身に付けたら、ブランドでもなくなる訳なんだけども、日本人はそれに気が付かない。みんながシャネル持ってるからシャネル買う。フランス人は、そういう意味じゃ、日本人を感謝してると思う。感謝の裏にあるのは、日本人を小馬鹿にしてる。だって、向こうの人間はそういう感じでは、ブランド志向に陥らない。例えば、シャネルがいいなぁ、と思って周りにいた人がみんなシャネル持ち出したら、ポイ、と捨てるのがフランス人だと思う。

人研D 先ほど、「こだわり」と言う言葉がありましたけども、何かこれだけは譲れないって子とはありますかね?

志茂田 「こだわり」っていうのは、結局は要するに、周りを意識しなくなることが「こだわり」。っていうのは、社会生活をしてるのに、他の人の姿が一瞬見えなくなっている中で、自分が楽しんでる。それが、僕にとっての「こだわり」だね。他には、別にこれといったこだわりないから。

人研B 色んなものに対する好奇心があって、また自分に対する可能性の好奇心があるという…。

志茂田 そうね。好奇心はあくまで、そっちの方へ赴くままの気持ちだから、大切にするけどね。だから、すぐに好奇心が失われても、また新たな好奇心が生まれるだろうし、負にしない。だから、好きで始めたことに、飽きてやめても、それに未練は残さないって言う部分。「せっかくこれだけ時間かけたんだから、それから離れて、それを捨てて、ってそういうのは勿体無いじゃないか」っていうような未練は持たないのね。

人研B ある日突然思い立って、そういう風にファッションとかも変えるようになったのですか?それとも、過渡期とかがあって…。

志茂田 過渡期とか、そういうもんじゃなくて。要するに、ファッションは心の変化の結果だと思うのね。ファッションだけ変えようと思うと、それは、なかなか変えられるもんじゃないっていうか。変えられるとしたら、それは流行。周りが着てるから、変えるだけであってね。ホントに自分の中で変わるっていうのは、結構エネルギーが要ることだよね。

人研B 外的には簡単に分かっても、内的変化ってのはなかなか判んないもんですよね。

志茂田 要するに、内的なものが外面に現われるんだから、その逆、単に流行でやってる、見える部分をやってるだけで簡単なの、これはね。内側が変わって外面が変わるってのは、これはある意味では本当に変わらなくては、出来ないから大変なの。だって、別にファッションに例えて言ってるだけで、実際、内側から変わってやんなきゃ、こういうことやったら笑われるっていったような意味が必ず残ると思う。だから、多くは内側から変わらずして、楽だから周りと同じような事やってるわけ。それが、周りと同じって、その世界の中でやってることは、単にブランド志向。同じカッコしてないとみっともない、排除される、それは内面の変化と関係ない要素に囚われているだけだからね。

人研A 内面の変化が伴うからこそ、個性である、と。

志茂田 そこですぐ、個性に繋げる必要もないかなっと思うけれども。やっぱり、内側の自分を大事にすることで、少しずつ本当に変わっていけるんじゃないかな、というところはあるわな。

人研F 最近の若者で、これはいい傾向だなっていうのはありますか?

志茂田 結構色々あるんだけどもね。例えば、マニュアル。マニュアルってちょっと否定的に言ったけども、多様化した中のマニュアルで自分の好みを選ぶってことは、もっと狭い意味でね、自分の好みをもっと大事にするようになるから。

一同 今日は本当にありがとうございました。