藤子不二雄A

 

2004.11.15 新宿 藤子スタジオにて

 

参加メンバー 畠山 小川 飛高 福田 脇田

 

畠山  今日はどうもよろしくお願いします。今回先生はインタビューを受けてくださいましたが、このような知らない人との付き合いなんかは積極的になさるんですか?

 

藤子Ⓐ  僕は人付き合いは大好き。漫画家っていうのは人付き合いしない人が多いんだけどね。僕は昔根暗でね、だから漫画なんて描くわけで。外交的な人っていうのは漫画は描かないんじゃないかな。最近は違うかもしれないけど。漫画っていうのは引きこもって描くものだから。僕なんかはその典型だけど。僕は富山県の氷見というところのお寺で育ってね、氷見は魚が有名で漁師さんが多くてね、小さいときから船に乗ってお父さんのお手伝いしてるからすごいたくましい。幼稚園は東京だったんだけど、小学校から氷見に行って、自分のまわりは大きい人ばっかりでね、僕はチビでいちばん前だったの。学校行くのが怖くて、今で言う登校拒否児童だったのよ()。当時は学校行かないなんて許されないことでね、無理矢理行ってはすぐに寺に帰って、ずっと絵を描いてたね。すぐに赤くなるから人から「電熱器」って呼ばれてね、それを聞いてさらに赤くなって。それから小学校五年のときに親父が亡くなってね、そうすると本山から別の和尚さんが来るわけ。それで寺を出なくちゃいけなくなって、お袋と姉と僕と弟でおじのいる高岡に通ってね、その転校した先に藤本君がいてね、彼と出会ってなかったらもう絶対漫画なんて描いてなかったね。そのまま駒澤大学出て修行して和尚さんになってたと思うよ。親父が死ななかったら漫画家にはなってなかったし藤本君にも会えなかった。そうすると藤本君も漫画家にはなってなかっただろうね。彼も人付き合いはできるほうじゃなくて僕とだけ付き合ってたね。

 

畠山  人付き合いができたほうが漫画家としてはいいんですか?

 

藤子Ⓐ  人付き合いすることが漫画にとってプラスになるかというと必ずしもそうではないわけで。僕の相棒の藤本君なんかは僕以外の人とほとんど付き合ったことがない。彼が「ドラえもん」とかの漫画をずーっと描き続けていられたのは、彼が人付き合いをしなかったからかもしれない。いろんな人と会うとそこから変わっていってしまうから。手塚治虫先生も人と遊んだりとか一切しない先生だったね、生活のすべてを漫画とアニメーションに捧げた人だから。

 

畠山  僕の友人で漫画を描いている人が二人いるんですね。どちらも社交的とは思わないんですけれど、それは悪い兆候とも言えないんでしょうか?

 

藤子Ⓐ  それはその人によるわけで。みんながみんな人と付き合わないっていうことはできないわけで、天才だけが許されることでね。当時は漫画家目指して上京するなんて夢のまた夢のような話でね、手塚先生はいるけどあの人は別格で、漫画家なんて仕事になる時代じゃなかったから。「まんが道」にも描いたけど、僕はおじの紹介で富山新聞社に勤めてね、それが性格が変わるきっかけになったね。嫌でも人と接しないといけないから。そこで「裏から見れば」っていうタイトルの連載を任されてね、最初は移動動物園の取材をして来いって部長に言われたんだけど、そういう仕事をしてる人たちはすごい人たちばっかりでね、一応行ったんだけど恥ずかしくてインタビューできないわけ。半日いたんだけど結局取材を申し込めなくて、結局そこの動物をスケッチして、虎とか熊がこう言った、っていう架空のインタビューをやったわけ。これなら想像でできるから。それが大人気でね。で次に郵便局に取材に行ったんだけど、これは前みたいにはいかないから、勇気を出して行ったのよ。それからだんだん「人間っていうのはこんな面白いのか」って思うようになってね、そこから積極的になっていったわけで、あれがひとつの転機だったね。

 

畠山  じゃあ先生にとっては人付き合いは漫画にとってプラスになっていますね。

 

藤子Ⓐ  結果的にはね。新聞社に勤めるっていうのは格好いいし、おじは社長をやっているから社長の椅子も約束されているし、まあそんなことないかもしれないけど()、でそこから二年目に高校出の竹内さんってお嬢さんがうちに入ってきて僕の部下になってね、もう結婚したいくらいでね、「安孫子さん、安孫子さん」ってくっついてきて。ぼくはそのときラジオ欄を担当しててそれを引き継いでね、あの時は言うことなかったね。月給は結構いいしね、仕事は面白いし竹内さんもいるしで、漫画家目指して東京行くなんてことはすっかり忘れてたね。僕は二年勤めてたけど、藤本君は人と付き合えないから会社に入って三日で辞めちゃったの。あのころの会社っていうのは一生ものだからすごいことだよね。で「俺は漫画家目指すけど今はまだ東京に行くときじゃないからおまえは新聞社に勤めてろ」って言われててね、で二年経ってすっかり忘れたころに「そろそろ新聞社辞めろ」って言われたときは青天の霹靂でね。

 

飛高  「まんが道」の中だと、安孫子先生は「よし、俺もやるぞ!」と一念発起した感じでしたけど。

 

藤子Ⓐ  そういうつもりはあったんだけど、漫画家なんて何の保証もないわけだから。新聞社で月給もらって、仕事では映画欄担当したり似顔描いたり好きなことやってたからね。言われたときはびっくりしたね。

 

畠山  でも当時は漫画家ってあまり認知されてなかったですけど、デビューしてから仕事はバリバリこなしてたんですよね?

 

藤子Ⓐ  いや、漫画そのものはそんなに描いてないですよ。「最後の世界大戦」っていう僕らの最初の単行本を藤本君が描いてて、投稿もしたりして、漫画を描いてはいたけれどそんなバリバリ描いていたわけではないですね。新人のスペースなんてないもの。少年誌は小説と絵物語と漫画があって、漫画の割合は少しで、そこは大先生の連載だから。ほとんど載ることないですよ。増刊号とかにちょっと描くくらいで。

 

畠山  僕たちはまだ社会人ではないですけれど、これから社会に出る際の参考として、働いていたときの苦労やそれを乗り越えたエピソードなんかはありますか?

 

藤子Ⓐ  新聞社にいた初期は自閉症気味だったからね。取材するときはテープなんてなかったから、喋ることを全部速記するわけ。僕はそんなの練習してないから、書いてるうちに何言ってるかわからなくなっちゃうんですよ()。でもやっているうちに、書いた文章を自分で組み立てていく、っていうのができるようになってくるんだよね。やっぱり経験って大事だと思うんだよね。勉強して終わるんじゃなくて、実際に仕事として経験するっていうのが身につける早道になるわけで。勉強も大事だけど、実際の社会経験の中で身につけていくっていのが大事だよね。漫画でも本に載らない原稿をいくら描いてもあんまり駄目なんだよね。印刷されたものを読んで初めて自分の作品を客観視できるわけで、自分だけが見ているうちは自己満足で終わってしまうわけで、本に載って初めて嬉しい気持ちとかやる気とかもわいてくるわけですよ。

 

脇田  作品は読み手を意識されてますか?

 

藤子Ⓐ  いや、それはないよね。結局漫画っていうのは人が読んだらこう思うだろうとか考えて描いてたら駄目なんですよ。流行ることを考えて描くようなケースもあるけどね。今は漫画は個人でなんでもやるっていうのじゃなくて、編集者がこういうのをやりたい、と言ってきて、原作者がストーリーを作って漫画家が絵を描くっていう分担で作るケースが割と多いんですよ。僕は何から何まで自分でやるわけだから、読者に何が受けるとか考えている余裕はないわけで、僕が漫画を描くのは、僕が読みたいんだけれど他の人が誰も描いていない、それじゃあ描こう、ってなるわけで、まず自分を読者にして描くわけですよ。それで「面白い」って思う読者が一人でもできると、漫画っていうのは映画やテレビと違って、ひとつの作品にみんなでよってたかって接するっていうのは絶対にないわけですよ。一人で読むわけだから、個対個の対話みたいにして始まるわけで、一人の読者、僕の場合は自分、を相手にして描くわけ。そしたらそれが10人、100人と広がっていくわけで、それが非常に面白いところですね。

 

畠山  じゃあ時代の流れにあわせて描く、といったことは・・・、

 

藤子Ⓐ  全然ないです。もちろんそういう人もいるけど僕はそういうことしたことない。したって駄目なんですよ。今はこういう時代だからこういうの描こう、とやったって当たる保障はないんだから。

 

畠山  先生のブラックユーモアの短編を読ませてもらったんですけれども、30年くらい前の作品なのに、ストーカーや引きこもりが出てくるじゃないですか。あれはすごい先取りしてるな、と思ったんですが。

 

藤子Ⓐ  僕は先行しすぎるんだよね()。例えば「魔太郎がくる!」っていう漫画があるけど、あのころはいじめとか表立った問題になってない時代だったの。少年チャンピオンに連載頼まれたとき、少年誌なんだけどギャグじゃなくてなんか変わったものが描きたいと思ってたの。僕は子供のころいじめられっ子だったから、今と違って陰湿ではないけれど、それでもすごいいじめられた方だし、いじめるやつよりいじめられるほうが圧倒的に多いわけだから、いじめられっ子を主人公にしたら面白いんじゃないか、って思ったのよ。ただいじめられるだけだとカタルシスがないから、いじめられる側が実は大変な魔力を持っていて、最後に復讐するという内容ならいいんじゃないかという考えで始めたんですよ。そうしたらすごい人気になっちゃったの。「うらみはらさでおくべきか!」って言って魔太郎が仕返しするわけですよ。あの言葉は僕が子供のころに観た怪談映画からなんです。時代劇で、綺麗な女の人がお局さんにいじめられて自殺するわけですよ、井戸に身を投げて。でその子は猫を可愛がっていて、猫に恨みを託して死んでいくんですよ。で猫が化け猫になって、いじめていたお局に「うらみはらさでおくべきか!」って叫んで仕返しするんです。「この言葉は面白いな」って思って使ったらえらい人気が出てね、編集部が悪乗りして「みんなのうらみ買います」っていう募集をしたの。そしたら山のように来ちゃってね、葉書なんてほとんどなくてみんな封書。びっくりしたのはそのときすでにいじめが深く進行していたことだね。しかも僕はギャグで募集していたのにリアルなのよ。で「これはやばい」と思って()、連載の初めの一年くらいは現実的な方法で仕返ししてたんだけど、トラクターで轢くとかね、真似されたら困るでしょ。新聞で「魔太郎読んでやった」とか書かれたらね()。それからは海の真ん中へ放り出すとか幻想的な方法でやるようになったね。連載二年目くらいにいじめが社会問題になってね、テレビとかの取材がたくさん来たんだけど、僕は別にいじめの研究家じゃないからそういうのに一切出なくて、人気あったんだけどやめちゃったの。僕の漫画で唯一アニメにしてない作品だね。話はあったんだけどやばいと思って封印してあるんですよ。それはちょっと時代を先行しているし、「プロゴルファー猿」っていう漫画描いたんだけど、まだゴルフはブームでもなんでもなかったのよ。僕は早くからゴルフやっててすごい面白くなっちゃったの。野球は昔めちゃくちゃやってたんだけど野球漫画は描いたことないの。楽しいことを漫画のネタにしちゃうとそれをやる気がなくなっちゃうから。ゴルフは始めて五年間くらいはすごいよかったんだけど、急に下手になってきてね、困ってたときに少年サンデーから連載頼まれたのよ。当時は野球は「巨人の星」とか全盛のころで、ゴルフは一人でやるもんだから面白いんじゃないかと思って編集部に持ちかけたら、まだ大人もゴルフをやってない時代でね、少年誌でやるなんてとんでもない、って言われてたのよ。当時の子供たちは一人っ子が多くなっていてね、小遣いを貯金するっていうのが流行ってたの。お金っていうものに子供たちがすごい関心を持っていた時代でね、お金を絡ませたら面白くなるんじゃないか、と思ってね、猿はプロの賞金稼ぎ、っていう設定にしたんですよ。そしたら編集部も「面白いな」っていうことになって、猿はお父さんがいなくて、お袋に家を買ってやるためにゴルフで賞金を稼ぐっていう設定にしたんですよ。そうしたら一回目から人気No.1になっちゃってね。実はそのときはお父さんがゴルフをやらないけどテレビで観始めていたころでね、それを日曜になると子供が一緒に観ていてね、子供ってそういう先端を先取りするところがあるじゃないですか。そういうことがあったから子供たちにうまくフィットして人気が出たんです。あるとき、猿はお金ないからボールとか買えないわけですよ、だから落っこちているロストボールを弟たちが拾ってきて使ってたんですけど、あるときドラゴンっていうプロと試合があるときにね、ホールに崖があるんですよ、150ヤードくらい。そこをロストボールを使ってパーンと打ったらね、当時ゴルフには始球式みたいなのがあるんですよ、普通のボールじゃなくて打つと割れて煙を吹くスモークボールっていうのが流行ってたの。で必ず最初それを打って拍手してから始まる、っていう風になってて、僕のアイデアで、実は普通のロストボールだと思ってたのがスモークボールで、打ったとたんパーンと割れて崖に落ちていく、っていうのを考えてね。これは面白いと思って描いたら、「スモークボールが割れずに落っこちているはずがない!」っていう指摘がたくさんあって、これはまったく気がつかなかったね()。子供ってのはすごいこと気づくよな、て思ってね。そこは苦し紛れで、「実はバッグの中に入れてたのが落ちたんですよ」とか説明してね()。自分が入れ込んで描いてると読者に繋がる、ということはありますね。

 

脇田  アイデアっていうのはそのときに自分が入れ込んでいるものから出てくるんですか?

 

藤子Ⓐ  そうですね。社会的なものとかも反映するわけだけど、そのときだけの流行とかを取り入れても長くは続かないんだよね、すぐ古くなるから。そういう意味では僕の「怪物くん」とかの漫画は読者の子供たちが大人になっても「懐かしい」とかの感じになるし、読者が卒業してもまた新しい読者が来る、っていうサイクルができるんですね。

 

畠山  漫画を描く際のこだわりは何かありますか?

 

藤子Ⓐ  これはさっきも言ったように自分が楽しいと思ったことを描く、といったことですね。

 

飛高  「まんが道」を読んだときに印象に残ったことがあって、テラさんが、一人の子供の読者を想定して描く、といったことを言っていたんですが。

 

藤子Ⓐ  僕は想定する読者は自分なわけです。例えば僕らは締め切りっていうのはすごい大事なわけですよね。僕はトキワ荘のころは描くスピードが遅いから、ある程度仕事があると毎日徹夜するわけ。朝の十時とかのギリギリのときに編集の人が取りに来るのに四時か五時には寝ちゃうわけですよ。八時とかに起きてあと二時間しかないっていう経験があって、「忍者ハットリくん」を描いてるときにこれを使わなくちゃ、と思って。例えば明日テストあるのに寝ちゃって目が覚めたら学校が始まっちゃう、そんなときにハットリくんが助けてくれたら読者は実感を持って読めるわけですよ。そういうのが大事なの。頭で考えたことじゃなくて実感を持って読んでもらえるように、というのが僕が大事にしてることです。

 

畠山  漫画家の生活を長く続ける秘訣のようなものはありますか?

 

藤子Ⓐ  それはないですね。僕は20歳に時に東京に来たわけだけど、当時はまだ手塚先生が出てきたころで、割とタイミングよく、まあ失敗もあったんだけど、二年後か三年後には漫画家として生活できるようになってたのよ。そんなときに編集の人が「藤子さん、誰かいい新人いませんかね」って言い出して僕はびっくりしちゃってね、「僕らまだ新人ですよ」って言ったら「もう藤子さんは中堅です」って言われちゃってね()。21で中堅だったらもう先がないじゃないですか。僕らの上は手塚先生しかいないの。先生は大天才だからいいけど僕らはこの年で中堅だったらこれからどうなるんだ、っていう感じだった。どんどんどんどん若い人が出てきて使われて、でも連載の量ってのは限られてて、そこに昔から描いてる人と新人が入ってくると描ける場所ってのはほんとに少ないわけで。そのときは漫画ブームで地方からいろんな新人が出てきてすごい競争の激しい時代で、僕はあと何年やれるかな、と悩んだ時代もあったの。でもその後、少年サンデーと少年マガジンが出てきたことが非常に大きかったんだけど。東大紛争のときに東大生が少年週刊誌を読んでいるっていうのが記事になったことがあって、「東大生も漫画を読むような時代になったのか」って思ってね、それからだんだん社会人も読むようになって。そのうちにビッグコミックとか大人の人が読むような雑誌が出てきたのとちょうど波長が合ってきたんで今までやって来れたんだけど、あのまま少年誌だったらぼくはきっと終わってただろうね。石ノ森章太郎氏だってみんなそうですよ。やっぱりある程度年齢を重ねるとだんだん大人向けのものを描きたくなってくるんです。大人になっても子供のものを描き続けるっていうのは僕の相棒の藤本君ただ一人ですよ、40になっても50になっても子供漫画描けるっていうのは。彼にしかできないことで本当にすごいですよ。

 

畠山  藤本先生との印象深いエピソードはありますか?

 

藤子Ⓐ  そんなのきりないよね。何十年も一緒にいたわけだから。もともと僕はアウトドア派の人でひとりで漫画描くのとか辛気臭くて向いてないんだけどね、東京来てからもお酒飲んだりゴルフやったり旅行したり、一人の遊びはまったくやらないで必ず誰かと遊ぶ。そうすると普通漫画家っていうのはスタッフと編集の人と出会うだけで人間関係が完結しちゃうんだけど、僕はそういうの嫌なんで全く普段つながりのない人とゴルフやったりしてね、人間ってのはこんなにいっぱいいてこんなに面白いのかと思うわけ。必ずしもいいことばっかりじゃないよ、嫌なこともあるんだけど、そういうのも含めて人間っていうのはこんなに複雑でキャラクターがあるのか、ということを勉強するんですよ。絵は木を描いたり風景描いたりすれば作品になるけど、漫画はそうはならないんですよ。やっぱり人間が出てきていろんなことをやるから作品になるわけで、人間の存在が大きな漫画の材料になるわけでそれが非常に面白い。藤本君はそういうことなしに純粋な気持ちで一人でずーっと漫画を描いていたけれど、僕はやっぱりある程度になると、子供のころの夢が人間の欲望に変わってくるわけですよ。綺麗な人とお付き合いしたいとかいろんな事思ってくるわけじゃないですか。そういう気持ちを書いたほうが逆に面白いんじゃないか、と。

 

畠山  「笑ウせぇるすまん」とかですか。

 

藤子Ⓐ  そういう作品ですね。ビッグコミックの編集長がですね、読みきり描いてくれ、って言ったときにそういうの描きたいな、って思ったんで。あれを描いたのは僕のひとつの転機ですね。あれからそういうのが面白くなっちゃってブラックユーモアを描いたりしたんですけどね。

 

畠山  これからは読者は大人向きになっていくんですか?

 

藤子Ⓐ  段々ね。僕は毎日小田急線で通勤してるんですよ。40分くらいなんですけど電車に乗るのは非常に面白いんです。例えば毎日一人の人を観察して、この人はどこに住んでてどんな家族がいてどういう仕事をしてるのかっていうのを想像するんですよ。漫画を長く描いてると顔を見てるとその人がどんな人かは大体わかるんですよ。これが面白くて飽きないですね。それを今度は「笑ウせぇるすまん」を描くときに使うんです。頭の中で考えることも大事だけど、三分の一か三分の二は自分の体験を入れると読者は実感を持って読めるんですよ。普段は夜お酒飲んだりして遅くなるんだけど、たまたま六時に仕事が終わって帰りの電車に乗って、新宿出て下北沢に行くんですよ。その次は成城学園に停まるんですよ。その駅のホームからそこに建ってるビルの後ろ側が見れるんですよ。そこの二階の窓を見るとどうもそこがバーらしいのね。僕の前に定年寸前のおじさんがいて観察してたら、成城学園で停まったときにバーの窓のところにとても綺麗な女の人がいて、まだお客は入ってないから夕涼みしてたのね。そのおじさんはずっと女の人の顔を見てたの。そのまま電車は出ちゃって。僕は先に降りたんだけどおじさんはまだ乗ってて。「これはちょっとネタになるな」と思ってね。

 

畠山  実際「笑ウせぇるすまん」に使われてましたね。

 

藤子Ⓐ  そうそう、「途中下車」ってタイトルで。それでそれから一月後にまったく同じ電車に乗ったらそこに同じおじさんがまたいたわけ。電車が成城学園で停まったら窓は開いてたんだけど女の人はいなかったの。おじさんの顔見たらなんかがっかりした感じがするのね。ただそれだけのことなんだけど僕が漫画に描いたのは、定年退職間際のおじさんが普段寄り道しないでまっすぐ家に帰るのに喪黒にそそのかされて退職のその日に、今までの人生一度も途中下車してないから、今日だけは途中下車してあのお店に行って、とんでもない目にあう、っていう話なの。そういうのは自分も描いててワクワクするわけですよ。そのおじさんがバーに行ってどうなるだろう、とか、その女の人がひどい人で退職金取られちゃうんじゃないか、とか考えると非常に気分が乗ってそのおじさんになったような気持ちで描けるわけで、読者も自分のできないことを漫画の中でやってもらって、そうしなくてよかったな、というひとつの教訓的な意味合いもあるわけです。

 

脇田  結末がすごい怖かったりするじゃないですか。読み手がどう受け止めると思っていますか?

 

藤子Ⓐ  あれはずいぶん昔に「漫画サンデー」ってところで描いてて、そのときは一部のファンだけで一般的なのは生まれなかったんだけど、たまたま何十年か経って「ぎみあぶれいく」っていうTBSの番組があって。僕と大橋巨泉氏とは仕事上何の付き合いもないのに「11PM」のときから一緒に遊んでてね、「今度やる番組で10分のアニメーションをやってくれ」って頼まれてね。僕のアニメは「ハットリくん」とか子供向けだったんだけどあれは九時から十一時っていう時間帯でね、そういう時間帯に乗せるアニメっていったら「せぇるすまん」しかないから、これでいこう、ってなったらすごいヒットしたんですよ。喪黒の犠牲になるのは中年のおじさんが多いんですよ。おとなしい人が喪黒にそそのかされてひどい目にあうっていう内容だからそういう世代の人が観てくれてるのかな、って思っていたら、女性が圧倒的に多かったの。ゴルフに行ったらキャディーさんが「昨日のせぇるすまんは面白かった」って言ってたから「何が面白かったの?」って聞くと「おじさんがひどい目にあうのが痛快だ」って言うんですよ()。「こういうとらえ方もあるのか」って思ってびっくりしたことがあるんですけどね、「喪黒かわいい」とか言われちゃって()。予想外の反響があったりしてそういう意味では面白いですね。

 

畠山  人間観察をよくする、とおっしゃいましたが、例えば僕たちはどんな風に見えますか?

 

藤子Ⓐ  人間観察という不思議なクラブなわけですからね()

 

飛高  早稲田で人物を研究するサークルがないから作ろう、というのが動機なんです。

 

藤子Ⓐ  歴史は長いんでしょ?40年ですか。そこに入ろうっていうんだから少し変わっているというか()、面白いんじゃないですかね。人間観察はやっぱり非常に面白いですから。

 

畠山  僕らが漫画に出るとしたらどんな風になりそうですかね?

 

藤子Ⓐ  そうですね、でも学生っていうのはまだ社会経験を積んでいないプレーンな存在だから、個性はあるけど人生経験はないので今は学生という枠の中にくくられてますね。社会に出てから面白くなってくるんでしょうね。僕も社会に出てからキャラクターに大変な変化が出てきたわけで、もちろん楽しいことばかりではないんだけれども、そういうことも含めて人生を面白がるっていうのが大事なことだと思うんですよね。僕は漫画家だからそういうことをネタにしているから面白いんだけれども、そうじゃなくても自分の仕事を面白がらないで「つまらない、つまらない」って言ってたら自分の人生までつまらなくなってしまうからどんな仕事でも面白がってやるというのが重要だと思いますね。

 

畠山  友人にも伝えておきます。

 

藤子Ⓐ  漫画家志望の人だって漫画ばっかり読んでたら漫画家になれるかっていったらそうではないわけで。いろんな体験したりね、特に限られた人だけが自分の中にあるものだけで作品を作れるけど、僕とかのそうじゃない人は社会経験が活きているね。今まで続けられたのも社会経験があったのが大きかったと思うんですよね。僕の場合は藤本君と会った事、手塚先生と会った事、トキワ荘で仲間と過ごした事っていうのがほんとに大きかったね。あれが無かったらやっぱり途中で消えてただろうね。今でも赤塚氏とかつのだ氏に会うとぱっと20代の頃に戻っちゃってね、そういうひとつの大きな体験がね、例えば寺田ヒロオ、テラさんっていう兄貴がいてね、そういう人たちの存在が本当に大きかったね。

 

脇田  人間的成長をしていけ、ということですか。

 

藤子Ⓐ  そうそう。テラさんっていうのは僕らより三つか四つ上でね、それしか違わないのにほんとに兄貴分でね。トキワ荘のころ赤塚君は前からギャグをやりたがってたんだけど、当時はギャグっていうのはまだブームじゃなくていやいや少女漫画を描いてて、ぜんぜん合わないから描いてて自分で嫌になっちゃって。そのとき新宿のキャバレーで住み込みで働ける人募集しててね、彼は当時はいい男でね、「漫画は見込みないからキャバレーで働く」って言ったらテラさんがね、ちょっと待てって言って六万円出してくれたの。確かあの頃の家賃が五千円で、トキワ荘ってけっこう高いんですよ、生活費は月一万は無いとやっていけない時代でね。今のお金で言うと五ヶ月か六ヶ月は暮らせるわけですよ。「これで半年がんばってみろ。これがなくなってそれでも見込みがなかったらキャバレーでも何でも行け」って言ってね、「ありがとうございます」って言って借りてってね、二ヶ月後かなんかに、当時は漫画家が何本も連載抱えてて締め切りが集中してて逃げちゃうことがあって、突発的に穴が開くわけ。トキワ荘は漫画家いっぱいいるから、「○○ページ開いた」って言って編集者が来たら、誰かが「じゃあ僕やりまーす」って言うの。穴埋めだから何描いてもいいの。そこで赤塚氏が8ページのギャグを好きなように描いたらこれがもういきなり連載になっちゃって。人気出て、それからあれよあれよという間に「おそ松君」になったわけで。赤塚氏は今でもテラさんに感謝してて、あのときの六万円がなかったら絶対に漫画家で成功してなかったって言ってね。僕らもみんな部屋の家賃をテラさんに借りたりね、陰で「寺田バンク」って言ってたんだけど()。ほんとにありがたくてね、みんなの面倒見てくれてほんとに助かった。僕らが東京に出たときは両国の親戚の家に二人で二畳の部屋に住んでたの。手塚先生がトキワ荘の敷金三万円を置いていくからって言って部屋を空けてくれたんだけど、そのときにテラさんからこんなに手紙が来たの。なぜかっていうと引越しするときに、例えば自炊のための鍋はどんなものを、とか隣の部屋の挨拶に何を持っていけばいいか、とかとにかく引越しについて10枚くらい手紙書いてくれてね、あんなこと書けないですよ。親みたいな人でね。ただ彼は非常に潔癖な人でね、あの人は新潟の電電公社でね、ピッチャーで都市対抗出たりとかして。身長だって高くてね、漫画描く人じゃないみたいでね()。僕らはチビだったりヤセだったりで落ちこぼれみたいな連中だけど彼は電電公社のエースだったから。それがどうしても漫画描きたくなって電電公社辞めて東京に来て「背番号0」とかのスポーツマンガ描いてね、非常に真面目なんですよ。要するに子供たちに教える、という漫画なんです。大人が子供に諭すような内容で、地味だからあんまり人気は出ないわけです。雑誌っていろんな漫画が出るじゃないですか。当時はピストル撃ったりとかのアクションが全盛でそういうマンガが出てくると、テラさんはそういう漫画と自分の漫画が同じ雑誌に載るのが許せないって言ってね、ほんとにすごい人で、編集長に「この漫画切ってくれ。これと一緒にやるのは嫌だ」って言うんだけどそれは人気No.1のやつでね、「いやいやそれはできませんよ」って言ったら自分がやめちゃったの。40近くになって一切漫画をやめちゃった。だんだん呼んでも東京に来なくなって、何年か前に亡くなったんだけどね。「トキワ荘の青春」っていう映画になったんだけど、みんなが成功していく中でテラさんだけが静かに去っていくっていうね、これはぜひビデオで観てください。とても寂しいラストなんだけどほんとにそういう人でね。他にもいろんな人がいてね、石ノ森章太郎っていうのは天才的な少年でね。僕より年下なんだけど作品見たら天才的で、すごい綺麗な絵で女の子もめちゃくちゃ素敵でね。これは描いてる石ノ森ってのはすごい男だな、と思ってたら高校の夏休みにトキワ荘に来て、詰襟の高校生で頭丸めてジャガイモみたいな顔してるから「これが石ノ森かー!?」ってなって()。ほんとに天才的な男でね。漫画っていうのは円を描かせるとわかるんですよ。円を描くにもタッチっていうのがあって、手塚先生とか石ノ森氏なんかはサーッと一筆で円が描けるの。僕らはじっくりやるからえらい時間がかかるわけ。この差は天性のもので、練習しても多少は早くなるけど差ははっきりある。石ノ森君も手塚先生もピューって早いし定規で描いたような線になる。定規で描いちゃうと正確な円になるけど、人間が定規無しで描くとその円に温かみっていうの、そういう個性が出るので、お友達にも円を描かせるとわかりますよ。こんな風にいろんな人と出会ったっていうのが財産ですね。人と一緒にお酒飲んだりゴルフやったりしてるといろんなことがあるじゃない。「こんな人がいるんだなー」っていうね。ゴルフ場とかでいろんな人と知り合えるじゃないですか。まったく仕事の違う人たちに会ってると非常に面白い。それがネタになって、それだけじゃないんだけど、いろんな人間がいるんだっていうことを認識すると、自分が広くなるっていうかな、自分の世界を狭くしないためにもいろんな人と付き合うっていうのは大事だと思いますよ。あなたたちもそうかもしれないけど今の子供たちっていうのは小さいときから友達と遊んだりっていう経験がほとんどなくてきてるわけだから。やっぱり大学まではいいけど会社へ行くと、人とのつきあいができなくて三日も通ったら自閉症になっちゃったりとかね、そういうケースが多いじゃないですか。人付き合いが下手っていうのかな、だから子供もゲームの世界でいろんな事やってるけど、例えば僕らの頃は子供たちがケンカなんかしちゃうと、叩かれたら痛いとかあるわけじゃない、今の子はゲーム感覚でやってるからまた繰り返し繰り返しそういうことできちゃうから、自殺したりね。そういうこと平気でやっちゃうわけだよね。それはやっぱり体験がないからそういうことになるわけでね。何年か前に筑波の小学生、中学生、高校生に、「西暦2000年になったら世界はどうなっているか」っていうのを絵に描かせるコンクールがあってね、僕は審査員を頼まれたの。いっぱい来たんだけど、中学生とか高校生はまだね、空飛ぶ車ができたりとかの明るい予想図を描いてるんだけど、小学生のを見てびっくり仰天したのは「2000年には地上は汚染されて住めなくて地下に住んでる」とかね、暗ーい予想図ばっかりだったの。それが一人や二人じゃなくてほとんどがそうなの。今の子供たちは未来にこんなにも希望を持ってないのか、と愕然としたんだけれど。これは非常に悲しいことだけど、どうすればいいのかっていうのは難しい問題でね。子供たちはゲームでいろんな体験してるわけだけどそれは実際の体験ではないからね。仮想現実とだけ付き合ってると半端な人間になっちゃうんじゃないかな、という不安感は非常に多いですよね。外に出たほうが面白いと思うんですけどね。僕の場合はちょっと出すぎで奥さんに怒られるんだけど()

 

飛高  お酒好きみたいですね。

 

藤子Ⓐ  お酒好きっていうかお酒飲んでるといろんな人と出会えるからね。昔は女の人がいるような店に行ってたんだけど、50過ぎてからはそうじゃなくて。僕らの行くような店っていうのは大体六本木にあってね、変な話なんだけど10時前に行っても客はほとんどいないの。ママさえいないの。ママが来るのが大体11時過ぎからで、最盛期が夜中の三時なの。お客はテレビ関係とか出版関係とかの人たちだから、そういう時間になると空くんで来るから、すごい面白いんですよ。ただそこは家から遠いんで、そこから帰るとえらいことになるんですよ。地下のバーが多いんでね、店から出ると朝になってたりするんですよ。で奥さんに怒られたりね。

 

畠山  今でもそんな生活なさってるんですか?

 

藤子Ⓐ  回数は減ったけどね。いろんな人と知り合いになれてね、(宮沢)りえちゃんなんかとも知り合ってね、とても楽しかった。

 

畠山  絵を描いてプレゼントした、とかあったらしいですね。

 

藤子Ⓐ  そうそう、コースターに似顔絵描いてプレゼントしたりね。

 

テープA面終了

 

藤子Ⓐ  ・・・藤本君と独立した記念にね、昔からの夢だった映画を作ったわけで。私らの子供の頃には必ず映画に主題歌があったから、「少年時代」をプロデュースするときに、井上陽水氏にぜひ主題歌を作ってほしい、と手紙なんて書いたことないのに初めて手紙書いてね。注文はただひとつ、陽水氏のデビュー曲「傘がない」のイメージで作ってほしい、それだけ頼んだの。

 

飛高  もしかしたら映画とまったく違ったイメージのものができるかもしれないですよね。

 

藤子Ⓐ  もちろんもちろん。篠田(正浩)監督に僕はね、「井上陽水氏に主題歌を頼みたい」って言ったらびっくりしちゃってね。「できたものがコンセプトに合わなかったら断れますか?」って言われちゃったのよ。さすがに僕もそこまで考えなかったんだけど()。頼んじゃったから「そこは何とかします」って言ったんだけど、試写会が近づいた頃になっても主題歌ができてこないわけ。で何回も催促しようと思ったんだけど。僕が原稿遅れて徹夜して描いてるときに編集に「六時までじゃないと間に合いませんよ」とか言われたときにカチンときて「じゃあやめてやる!」ってなったことがあって()。最後の最後まで催促しなかったの。そうしたら本当のギリチョンのところで電話がきて、「できたからスタジオ来てください」って言われてタクシーに乗ったんだけど、陽水氏には曲を作ってと言ったけど歌ってほしいとは言ってなかったのに気づいたのね(笑)。今から歌手探したらアウトだったんだけどテープには歌もちゃんと入ってて、聴いたときに「これはまさに僕のイメージにピッタシ!」と感激した。篠田監督も「これは最高だ」と喜んでね。急なことだったんで宣伝しないで発表されちゃって映画封切りの時にはあんまり反応がなかったんだけど、一年後サントリーのコマーシャルに使われて爆発的に売れてね、200万枚の大ベストセラーになったんです。それただ一回ですよ、陽水氏と仕事したのは。でもそれが何かの縁でつながっていくんですよね。大橋巨泉氏だってぜんぜん仕事関係ないのに「11PM」に出て話してたら仲良くなって。当時の巨泉氏はテレビの王様といわれててね。普通はタレントさんって番組終わったらスタッフと飲みに行ったりするんだけど、彼はまっすぐ帰っちゃうのね。酒でグデグデに酔って、大橋巨泉のイメージを崩したくないの。僕と飲んでるときは仕事上何の関係もないから、彼の奥さんと僕の奥さんも仲良くなったし一緒にご飯食べたりしてたんですよ。そういう関係がずっと続いて、僕が独立したときに、藤本君は「ドラえもん」があるけど僕はこの先どうなるんだろう、と心配してたら巨泉氏から電話がかかってきて「今度『ぎみあぶれいく』って番組作るから手伝ってよ」って言われてその結果「せぇるすまん」のアニメをやってヒットしてそれで盛り返したわけで。もし巨泉氏が声かけてくれなかったらまた僕は違った感じになっていたわけで、別にそんなこと計算して付き合ってたわけじゃないけど、こういうつながりから何か起きるっていうのは面白いですね。

 

畠山  藤子先生は今漫画を読みますか?

 

藤子Ⓐ  漫画家としてではなく読者として読みますね。編集の人がいろいろ送ってくれるんですよ。自分から催促したりしないけど来たものは読むし、あとうちのスタッフが薦めてくるものがすごい面白かったりとかね。若い人の作品とかけっこう見てる。

 

畠山  最近好きな作品とかありますか?

 

藤子Ⓐ  僕がいちばん好きなのはさいとうたかを氏の「ゴルゴ13」。あの人は漫画にプロ意識を持ってやってる。僕は逆にプロ意識じゃなくてね、旅行に行ったりするときに職業とか聞かれるじゃない、漫画家って答えたことない。画家とかイラストレーターって答える。漫画を職業にしてるってとらえるのが嫌でね、趣味の延長だから。贅沢なことだけど。さいとうたかを氏は初めから自分をプロとみなして描いてる。こういう認識はすごいわけでね。だから読むと僕とはまったく違った雰囲気だし、とても面白いね。去年若い漫画家から単行本の帯のコメントを頼まれてね。

 

畠山  日本橋ヨヲコ先生ですかね。

 

藤子Ⓐ  ぜひ書いてほしいって頼まれてね、読んでつまらないものは書かないけど、面白かったんでじゃあ書きますって言ってね。あと最近海賊の漫画、「ONE PIECE」ですか。作者の尾田栄一郎さんが対談したいって言ってきてね、僕は読んでいなかったんだけど、大変な人気だというので読んだらすごい面白くてね、彼はまだ27、8でね、僕ともう倍以上違うのよ。彼は小学校三年のときに「怪物くん」を読んで漫画家になろうと決心したんだって。だから僕とどうしても会いたいと言ってくれて。読者を想定しないで自分のために描く、といった趣旨のことを彼にも話したら「僕もそうなんですよ!」って言ってね、非常に共鳴するところが多かったですね。とても感じのいい情熱のある青年でね。それからロックの漫画、「BECK」のハロルド作石さん、彼は「まんが道」のファンでね、ぜひ対談したいというので会ったら僕以上に「まんが道」について詳しいの。ほとんど頭に入ってるのよ。僕なんか聞かれても「え、そんなところあったっけ?」っていうね()。彼のあの漫画は描写がすごいよね、音が出てないのに聴こえてくるようで。あれはやっぱり僕の「まんが道」みたいに、自分のやりたい夢について描いてるわけで、そういう人達が出てくると、やっぱりやっててよかったな、という気分になりますね。ちょっと待っててくださいね(席をはずす)。この本に載ってるやつがその対談です。彼がハロルド作石さんで、とてもセンシティブなイメージでした。

 

小川  僕がいちばん印象に残ってるのは、小学校低学年のときにテレビで観た「ぎみあぶれいく」の「笑ウせぇるすまん」ですね。今にして思うとそんな歳の子供が観るものじゃなかったかもしれないですけど。

 

藤子Ⓐ  あれは割と子供が観ててね、お母さんから「子供が観れるように時間帯を早めてくれ」って言われたりね。

 

畠山  僕は再放送で観たのかな?喪黒がとにかく怖かったのを覚えてますね。

 

藤子Ⓐ  本来は子供に見せるものじゃないですからね。子供はあれ観てどういう風に面白かったですか?

 

飛高  実は細かいところは覚えてないんですけれど()、喪黒が恐ろしいな、とは思ってましたね。

 

藤子Ⓐ  そうですか。喪黒福造は大橋巨泉氏をモデルにして作ったんですよ()。キャラクターは違うけれどね。

 

畠山  これからもアニメや映画とか映像作品を作る予定はあるんですか?

 

藤子Ⓐ  自分で「少年時代」を作るという夢が果たせたんでね。日本では映画は興業的になかなか成功しないんだけど、あの映画は賞を20いくつ貰ってね、新記録だったんですよ。あの年は有頂天で、興業的に大ヒットしたわけじゃないけど非常に作ってよかったと思うね。漫画と違って映画は大勢の人がお金かけて作るわけで、僕はプロデューサーとしてこの仕事に関わってて、名前だけ出すっていうのは嫌だったから自分からも出資して篠田監督にお願いしたりね。それまで会ったこともなかったの。でも監督の映画が大好きだったんでぜひお願いします、って言って。あれは昭和19年の戦争中のお話で、当時の日本の光景とか出てくるわけですよ。木造の建物とか今でもあるかな、と思って探したんだけど、一月後に田んぼの中に長い道がずーっと続いててその先に木造の小学校の校舎がある、っていう最高にテーマに合う風景が富山県に見つかって。これがあったからやりましょうってなって。シナリオを誰に頼むかを僕と監督が紙に候補を書いて1、2の3で二人で見せたら二人とも山田太一さんって書いてあって。山田さんは小説の脚色や、ましてや漫画の原作なんて一切やったことがない人だったの。オリジナル作品ばっかりで非常にプライドの高い人だったから無理だろうと思って一応お願いしたらこれがもう喜んでくれてね。山田さんも僕とまったく同じ世代で、これは疎開やいじめを扱った作品なんだけど、山田さんも疎開先でいじめの体験があったりしてそこにすごい共感を持ってくれて。それであの素晴らしいシナリオができたの。大橋巨泉氏にも声かけたんだけど、少年の父親の役で。でも「いやだ!」って言って()断られた。その頃の映画は台詞は同時録音じゃなくて後から入れるんだけど、巨泉氏は台本にないアドリブの台詞ばっかり喋って、音を入れるときに合わせるのにすごい苦労したんだって。それから「二度と出ない」って言ってたから。それに巨泉氏が出てお客さんが「巨泉だーっ!」ってなったら映画のコンセプトが滅茶苦茶になっちゃうから()。ところがしばらくして「出てもいいよ」って言ってきて「えーっ!?」ってなってね。戦争中で大人は兵隊になってて子供たちばっかりの映画だったから役がなくて、最後に主人公を撮影する写真家の役になったんです。監督に「巨泉氏が出るって言ってるんです」って言ったら「いやー困ったなー」ってなってね、重要な役なわけですよ。いじめっ子がいじめられっ子を助けるという場面で、写真館に逃げ込んで記念写真を撮ろうって言って、最後のシーンで二人で写真を撮るというね。ここにあるのがそうですね(藤子Ⓐ氏の後ろに主人公二人の写真が飾ってある)。でその写真家の役に巨泉氏が出てお客が反応したら映画がぶち壊しになるし()、弱っちゃってね。ところがまったく偶然なんだけど篠田監督も早稲田で、巨泉氏も早稲田。しかも監督が先輩。巨泉氏は先輩を非常に大事にするんです。監督に御対面したら「よろしくお願いします」って言って低姿勢でね。あれは早稲田が大きく貢献してると思いますよ(笑)。本番になっても一言もアドリブ入れなかったしね()。山田さんも大橋巨泉が出るからシナリオを書き換えて、実は東京で派手にジャズをやってた人が戦争なんで田舎に帰ってきて仕方なく写真家をやるという役で。当時はジャズなんて聴いたら憲兵に引っ張られていっちゃう時代だったからそういう場面も入れたらすごいリアリティが出てきてね、ずっと画面が華やかになったの。逆にすごい効果がでてよかったんですよ。

 

脇田  これからは新しい構想なんかはありますか?

 

藤子Ⓐ  あるんですよ。長い間漫画描いてるとタッチから何からまったく違う方向へ行きたくなることがあってね、ギャグからブラックユーモアへ行って、ある程度行くとブラックユーモアも飽きて、「毛沢東伝」っていうのを描いてね。まだ日中国交の前の時代に毛沢東の伝記ですからね。僕は毛沢東の長征に非常に興味を持ってね、いつかこれを描こうと思っていたら漫画サンデーからいきなり「毛沢東の伝記を描いてくれ」って言われてびっくりしちゃってね、当時のあの雑誌に劇画なんてひとつも無かったのよ。「なんで?」って聞いたら編集長が「これからは劇画も取り入れたい」って言って。僕にとってもいい機会だったからひとつ実験的に描いてみようと思ってね、わざとベタを多くしてドキュメンタリーのタッチで描いたんですよ。で僕の前が谷岡ヤスジさんの作品なんですよ。その後に「毛沢東伝」が入って()、本ができたときは「えーっ!?」って驚いたんだけど、やってみたらいろんな反響があってね。漫画サンデーなんて読んだことのない70歳のおじいさんとかいろんなところから反響が来てね、自分としてはひとつの転機になったね。自分を新しくクリエイトするっていうのも大事なことなんですよね。得意なことばっかりやってるといつか詰まっちゃうんで、それを捨ててまったく新しいジャンルに挑戦するとかね。そうするとまた新鮮な気持ちで取り組めて。同じことばっかりだとマンネリになっちゃうんでね。僕はマンネリがいちばん嫌いなんでどんどん脱皮していくっていうのかな。僕の青春時代は黒澤監督の映画が最高でね、「用心棒」とか「七人の侍」とか大好きでね、あれを作品化したいと思ってて、たまたまさいとうたかを氏や石ノ森章太郎氏もみんな黒澤作品のファンでね、僕は黒澤監督の息子の久雄氏と友達で、監督とゴルフやったりしてるんだけど、そしたらみんな「一回会わせてくれ」って言ってね、藤本君も大ファンで、石ノ森章太郎氏とさいとうたかを氏も連れてね、四人で成城学園の自宅に行って監督とお会いしたのよ。僕は何回か会ってるから平気だけど、他の三人にとっては小さい頃からの憧れの大監督だから緊張しちゃって口聞けなくてね。監督はお酒大好きだから僕と一緒に飲むんだけど三人はもうお酒どころじゃないのよ。で僕と監督が喋ってばっかりでね、で「いやー監督に会えてよかったー」って言ってね、その後黒澤時代劇をやろうっていうことになって僕が「用心棒」をやって、さいとう氏が「七人の侍」やって、石ノ森氏はやろうとしたんだけど病気で駄目になっちゃってね。僕はそれまで連載以外の描き下ろしってやったことがなかったんですよ。連載何本も抱えながらやってそのときはもう死ぬかと思ったんだけど作る喜びがあってやってよかったと思うね。違う分野に挑戦するっていうのは大事なことだと思うよ。特に若いうちはなおさら。何本も連載持って週刊誌でやって、徹夜徹夜でやってたけど体力がないと駄目なんですよ。締め切りとか人気も大事なことだし、今は雑誌に葉書がついてて面白かったのを3つ書け、とか、もっとひどいのになるとつまらなかったのを3つ書け、とかね。あんなところに3回4回連続で入ったらどんな巨匠も切られるという真剣勝負の時代だから、漫画家の厳しさは流行歌手以上じゃないかな。読者の支持がないと成り立たない仕事だから。僕なんかは50年描いてて慣れてるけどそれでいいっていうことはないからね。ある程度描き流すこともできるけど、読者もプロの読者だからそれは「流してるな」ってばれちゃうのよ。そうしたら読まれなくなっちゃうから。そういう意味ではやりがいがあるって言えるかな。

 

畠山  読者に合わせずに漫画を描いてさらに読者の支持を得るんですか。すごいことですよね。

 

藤子Ⓐ  僕は今年でデビューして52年になるんですよ。半世紀やってこれたわけで自分でもあきれててね、よくやった、って自分で感心してますよ。

 

福田  50年も続けられる活力っていうのはどこから来るんですか?

 

藤子Ⓐ  んーやっぱり、わかんないね()。僕は体は丈夫なんですよ。無茶苦茶やってるんだけど病気したことない。風邪もないね。自分でどうなってるんだと思うよ。原因はひとつだけあるんだけど何だと思う?

 

畠山  ・・・?

 

藤子Ⓐ  食べ物。寺で生まれたから肉とか魚とか食べないの。野菜も限られた野菜料理しか食べられない。だから外食はほとんどしない。朝うちで食べて、昼はワイフの弁当食べて、夜はうちで食べる。外でお酒飲んだりするけど一切食べないね。だから元気なんですよ。僕らの時代は戦争中だから肉はなかったんです。富山は魚の名所なんだけどうちの寺は厳しかったから一切食べなかったね。19のときに東京来てお昼に手塚先生のところに挨拶に行ったのね。そこでうなぎをご馳走してもらったんだけどそのときはうなぎなんて見たこともなくてね、でも手塚先生が出してくれるから、調子いいから「うなぎ大好きなんですよ!」とか言っちゃってね()。初めて口にしたらものの数秒で鼻血がビューって出てきてね。違和反応って言ってね、19まで肉とか魚とか一回も食べてないところを、うなぎなんていう強烈なものを食べたもんだから体がびっくりして鼻血が飛び出したんですよ()。当時金がなくて編集の人にご馳走してもらったりするんだけど、必ず肉とか魚なんですよ。あるときも新宿でトンカツをご馳走になって、「僕トンカツ大好きなんです!」とか言っちゃって()。当時は夏はクーラーとかなくて後ろにある二階の窓が開いてたんです。で編集がよそを向いてるうちにつまんで下へ放り投げて()。でつるっぱげの人の頭に当たって「ギャッ!」って言われたりね()。「え、もう食べたの?」「おいしかったです」なんて言って()。僕は春のタケノコが好きでね、白いタケノコを食べるんです。夏はスイカが大好き。秋はちょっとエンゲル係数が上がるけど松茸ですね。冬はぜんまいとかわらびとか。田舎のお袋の料理なんですよ。そういうのばっかり食べてるから、他は何にもしてないけど無茶なことやってても病気にならないね。人間ドッグ入ったら先生が首をかしげててね、「これはいよいよ来たかな」と思ってたら「何もない」って言うわけ。「この歳で何もないのはおかしい!」とか言われちゃって()。僕は物を持ち上げたりとかの体力はないけどいわゆる持続力、ずっと描き続けられる力とかはあるわけで、やっぱり人間はある程度体力がないと何もできないからね、やっぱり健康は一番大事だから今のうちから大事にしてたほうがいいんじゃないかな。でも僕らはあんまり元気でも駄目なんだよね()。僕はあるときつのだじろう氏の「空手バカ一代」っていう漫画のね、大山倍達大先生と一緒にご飯食べてね。大山先生は真面目な人でね、つのだ氏は漫画描くから空手習ってるんだけど、僕も空手に非常に興味があってね、「大山先生、実は僕も習いたいんですけど」って言ったら「じゃあ来週の月曜からいらっしゃい」って言われて「えーっ!?」ってなってね、週三回月、水、金と二時間やったんですよ()。当時は極真会館は拓殖大学が全部仕切ってて、大山先生は体が空いてるから僕たちに稽古をつけてくれてね、僕は九時からの稽古に行って、入り口入ったら拓殖大学の猛者が「押忍!」「押忍!」って言ってきて気持ちよかったけど。それから週三回やって休めないのよ。さぼろうと思ったら電話かかってきて「どうしたの!?」って言うから「風邪ひきました」とか言うと「すぐいらっしゃい!来れば治る!」って言われて()。練習終わると頭の中からっぽになって気分がすごい爽快なんだよね。原稿描こうと思っても何も浮かばない。それより駆けずり回りたい気持ちになってね、そんな感じで三ヶ月間通ったの。そのとき僕は40くらいでね。空手は正拳と裏拳があるんですよ。正拳は敵の急所を一直線に突いて、裏拳は手を逆に使って横を叩くの。「一撃必殺だ。めったに使っちゃ駄目だよ」って言われてね()。そんなのやってたらペンが持てなくなっちゃうのよ()。そのときたまたまアフリカに一月行く旅行があってね、そのときに嘘ついて「一年行く」って言ってそれでやっとやめたんだけど()。だから三島由紀夫があんな風になったのもあの人はボディビルで体鍛えたからおそらく小説書くのがつらくなっちゃったんじゃないかなと思うのよ、自分の体験では。だから創作っていうのはちょっと不健康なくらいがいいんじゃないかな、と思いますね。

 

畠山  藤子先生の短編にひ弱な男が空手道場に通ってヘロヘロになる話がありますけど、この体験がもとなんですか。

 

藤子Ⓐ  そうなんですよ。やっぱり自分で体験してみないとああいう漫画は絶対描けないね。

 

畠山  例えば理容室でひげを剃ってて危ない目にあう、といった話は実体験がモデルなのかな、とは思ってましたけど。

 

藤子Ⓐ  ああいうのも床屋の人に新人に関するそういう話を聞くわけ。これは面白いな、と思って描くわけ。そうするとそこにリアリティが出てくるんですよ。

 

畠山  漫画家生活でいちばん嬉しかったこと、っていうとどんなことがありますか?

 

藤子Ⓐ  やっぱり自分の漫画がいろんな読者に支持されてね、そういうのは非常に嬉しいんだけど、仮に自分の漫画が何百万部も売れても、その何百万の読者が喜んでる顔を実際に見ているわけではないから実感としてはなかなか感じられなくて、描く手ごたえっていうのかな、それが感じられることが大事かな。いろんな変化があったわけで、すべて順調に行ったわけじゃないし、いろいろあったけど僕の場合は藤本君と二人でやってきたから、二人とも同時にスランプになることはなくて、そういう意味で二人でいるっていうことはすごい大きかったですね。

 

畠山  二人でやってる漫画家さんって他にほとんどいないですよね。

 

藤子Ⓐ  片方が原作で片方が描くっていうのはいますけど僕らは両方描いてるわけでね、初めの頃は二人とも手塚先生のタッチを参考にしていて似てたけどやってるうちに段々と個性が出てきてね、「オバケのQ太郎」以降はほとんど合作はやってないですね。それぞれが描いて藤子不二雄名義で出して、読者もそれはわかっているわけでね。だけど段々描くものが変わってきたから、54のときに「そろそろ自分たち別々でやろうじゃないか」っていうことで独立したわけでね。お互いにとてもよかったと思います。

 

脇田  合作っていうのは絵を似せて描くんですか?

 

藤子Ⓐ  似せて描くというかもともと似てたんです。二人とも手塚先生の模写から入ってるから。でもしばらく経つと線に個性が出てくるの。藤本君の場合は非常に繊細な細い線で綺麗に描くけど僕の場合はどっちかって言うとガーッて描くのが好きだから割と太目の力の入った線になって、似てるけど読んでる読者は違いはわかるんだよね。「Q太郎」のときにはキャラを分けて描いて、オバQは藤本君が描いて、正ちゃんは僕が描くとかね。やっぱり二人でやってると能率が悪いわけですよ。僕が先に眠ったり()、昼間いなかったりするから、僕は自分の時間で描くし、彼も自分の時間で描く、というこれがよかったんだろうね。お互いが勝手にやって同じ藤子不二雄名義でやって、読者もそれで納得してくれていたわけだから非常にラッキーだったですね。奇妙なコンビでしたよ。はっきりした打ち合わせなんて何もなくて何の取り決めもなくてね。

 

脇田  キャラクターはどうやって生み出すんですか?

 

藤子Ⓐ  それぞれの作品で「こういうのがいたら面白いだろうな」と思うのを描くんです。ここにあるのは僕の出身地の富山県の警察のキャラクターでね、「立山くん」って言うんです。えらい人気者でね、安全運動なんかにいろいろ使われてるんです。こっちは僕の生まれた氷見の商店街にある魚のマスコットキャラでね、これはアンコウで頭にセンサーが付いてて、これが子供の頭の高さになってるんですよ。声かけると喋るようになってるんです。最近マンガ以外の仕事もやっててね、これはルイ・アームストロングですね(CDのジャケットを指差して)。生誕100年の時にレコード会社からジャケット描いてくれって言われてね、スタッフはみんな若い人で「怪物くん」とか読んでる世代でね、僕がアームストロング大好きだって聞いたらしくてどうしても描いてくれって言われて。そのときはあらゆるレコード会社からアームストロングのアルバムが出たんだけどこのアルバムがベストセラーになっちゃって。アームストロングを知らない若い子達がこのジャケットで買ったらしいね。全く違うジャンルの仕事をするのが面白くてね、最近はゲームでも編集でも何でも若い世代が出てきて、昔僕の漫画読んでた読者が今社会人になってね。20代の人とは話は合わんけど、そういう人たちに頼まれると嬉しいから、じゃあやろうじゃないか、ってなるんだよね。人と人との付き合いも大事なわけでね、編集や担当と機械的に付き合うんじゃなくてね、そこに人間関係を作るの。最初に原稿を見せる読者は編集なわけでね、その人に「面白い!」って言われるともう一度その人を喜ばせたくなるのよ。最初は自分のためなんだけど段々編集のために描くようになってくるわけ。だから一番困るのはページ数だけ数えて「ありがとうございました」って言うのね、ガクーっと来るよね()。彼だけが僕にわかる生の読者の反応で、彼のためにもっと面白いの描こう、ってなるわけだから、そういう人間関係っていうのはすごい大事で、原稿渡してはい終わりっていうのじゃないからね。

 

飛高  先生はけっこう出会いによって変わっていってるところがありますよね。

 

藤子Ⓐ  そうそう。節目節目でいろんな人に会ってそれが転機になってね、そういう意味ではすごくラッキーですよね。人間っていうのは山に一人でこもってるんじゃないんだから嫌でも人と接するわけでね、どうせ付き合うならいい付き合いをしたほうがその人の成長にもつながるわけでね。

 

脇田  今後描きたい漫画はあるんですか?

 

藤子Ⓐ  あるんですけど、構想を人に喋っちゃうと描く気が起きなくなるから。僕は構想を何年も暖めるんじゃなくてその場でパッと描くっていう瞬間的なエネルギーが大好きなんで割とそういう風にしてるんですよね。いろいろ描きたいものもあるけどね、歳だからそんなに体力もないしあんまり描けないかもね、漫画は体力だから。体力落ちちゃうと長い間机に向かうのがしんどくなってくるわけで。

 

畠山  そうしたらもう一回空手を習ったりするんですか()

 

藤子Ⓐ  またそうしようかな()